「恋愛はリソースを提供した側が思いに縛られる」と言った平林さんの告白はやがて、その後に起こった出来事を予感させるものだった。
百鳥ユウカの実の父である百鳥悠次郎の元婚約者であった彼女は、ここにいる悠次郎と関係を持つ女性たちに自分が行ったことを一つずつゆっくりと話し始めた。
「結局のところ、私は許せなかったんです。彼を信じるつもりでしたけど、彼を責めることはできない。私にとって悠次郎さんはかけがえのない人でした。彼が私の元から離れることは考えられなかった。許せない私の心は自然と浮気相手を憎む心に変わりました。まず私は、メモの相手を特定しなければと思ったわ」
その頃、平林さんは実家の不動産管理会社に就職して、管理物件のメンテナンス等で外出することも多かった。
だから、他の人より時間の自由もきいたため悠次郎の行動を監視することにした。
悠次郎は学校とアルバイトの往復だけで1日が終わるはずだから、出会いもその2つの場所に限られた。まずは悠次郎が家を出てから帰るまで、数日間尾行した。
すると、すぐに浮気相手は判明した。
悠次郎はアルバイトの仕出し弁当届け先である病院の看護婦と物陰に隠れてキスをしていたのだ。当人たちは隠れているつもりだろうが、遠目でもしっかり二人が交わっていることが確認できた。浅はかすぎる行動だ。顔はよく見えなかったけれど、メモの女に違いないことはわかった。二人はいつもこのわずかな時間にメモのやりとりをし、たまに人の目を盗んでキスをしているのだろう。女はあのナース服で悠次郎を誘惑したに違いない。きっと悠次郎は一時の気の迷いにすぎないだろう。
なんとかあの女を遠ざけなければ……。
「そして私はその女性が夜勤明けで出てくるをジッと車の中で待っていました。暗闇でチラッと見ただけだったから、特定できるか心配だったけど、彼女が病院から出てくるとパッとすぐにわかった。 どこか艶かしい色っぽさを漂わせた彼女は私服に着替えていたけど、悠次郎さんの相手に間違いないと直感でわかったの」
物陰に隠れてキスをする悠次郎と女のシルエット。腰回りについた豊かな肉を右手でさすっていた悠次郎を思い出すと、頭の中をぐちゃぐちゃにされるような思いがした。
「彼女は自転車に跨って帰宅するところだったので、私も会社のセダンをゆっくり走らせました。しばらく走っていて妙な気持ちになりました。だってずっと知った道から外れないんです。もしかしたら悠次郎さんと家がとても近いのかもしれない……そう思った時、彼女が平林荘で自転車を止めたんです。私も気づかれないように静かに車を止めましたが、彼女が入った部屋を確認してさらに唖然としました。だって、そこは唯一ご夫婦が住んでいる部屋だったから」
そこまで聞いて、助川光子はたまらず「ごめんなさい」と頭を下げた。
「もう昔のことよ。それにあなただけが謝ることじゃないわ。悠次郎さんだって知っていて不倫をしていたんでしょう?」
「……知り合った時は知らなかったんです。でも偶然が重なって……」
「いいのよ。そりゃあ驚いたし腹も立ったけど、しばらくして少しホッとしたの。不倫ならこの相手との結婚はないな、って。だからものすごくショックではあったけど、致命的じゃないと思えたのは本当よ」
平林さんは今ではそう冷静に口にしているものの、あの時はすぐにでも103号室へ乗り込み、「悠次郎さんに手を出さないで! 汚らわしい盗人!」と大声で叫びたかったのが本音だ。でも、今は冷静にこの事態を解決させなければいけないと思っていた。
「手立てを考えながら毎日悠次郎さんを監視する日々が続きました。アルバイトで毎日病院に弁当を届けには行っていましたが、私の知る限りそれ以上のことは何も起きていませんでした。そんな時です。悠次郎さんが平林荘の101号室のポストに何やら投函しているのを目撃したのは。101号室のポストを確認すると『大丈夫です』とだけ記された小さな紙切れが入っていました。悠次郎さんがここの住居人に大丈夫と伝えていることはわかりましたが、何のことかはさっぱり。でも、私にはもう嫌な予感しかありませんでした」
あまりにもなぞが残る紙切れだったが、101号室に住んでいる人物を特定するのが先だと考えた平林さんは、早々に事務所に行き契約書を確認した。すると、片山智恵子という教員だということがわかった。たしか……そうだ、インテリ風で契約書のサインをする際、メガネを取り出しかけた彼女に「メガネが似合いますね」と同僚のオジさん社員が言っていたのを思い出した。平林さん自身は本当はいかにも女教師らしい佇まいに嫌悪感を覚えていた。あの女とも何か関係があるのだろうかと思うと、文字通り何も手につかなくなった。
でも、このまま何もしないわけにはいかない。
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