「僕のやり方があってるかはわからないけど、“僕じゃないとできないこと”を信じてやっていきたい」
(櫻井翔, 1982-)
それぞれの場所で孤独感を感じていた男
3回目は、嵐・櫻井翔。〝初の慶応ジャニーズ〟からニュースキャスターになるまでの苦悩に迫ります。
「どの仕事も若干アウェイ」そう語る、櫻井翔。
アイドル・役者・ニュースキャスター……その仕事の幅の広さは、今では、櫻井翔なら当たり前、と思ってしまいがち。ですが、そもそも慶応の附属校に通いながら、ジャニーズに入った時点で、櫻井はアウェイな道を歩み始めた男です。
映画の撮影現場で衣装のまま新聞を読みふけっている、といった姿はその象徴。
デビュー時は、地方のバレー会場で嵐としてパフォーマンス→他のメンバーはそのまま宿泊する中、新幹線で東京に戻る→朝から授業に出る、という行動をしていたように、所属する組織の中で、大多数の人が通る道を通ってこなかったのが櫻井翔なのです。
これは、人と違う人生を歩もうとし、それぞれの場所で孤独感を感じながら、それでも自分の望む人生を手に入れた男の話です。
〝初の慶応ジャニーズ〟櫻井翔
今では、キャスター業など〝やっている仕事〟の特殊性で語られることの多い櫻井翔ですが、Jr時代からデビュー当初まで彼の枕詞になり続けていたのは〝初の慶応ジャニーズ〟であるということでした。
櫻井以降、大卒のジャニーズも珍しくはなくなりましたが、嵐のデビュー時の1999年に活躍していた先輩グループ、SMAP、TOKIO、V6・KinKi Kidsに大卒者はゼロ。高校も通信過程などに通い、やっとのことで卒業したという人も多い中、櫻井翔は幼稚舎(小学校)から大学まで慶応という生粋のエリートです。
櫻井本人も、幼少期に光GENJIが大好きだったというものの「オレが育ったのはそういう世界を否定するような環境だったから。あこがれる一方で、『ああいう人にはなっちゃいけないんだ』みたいな意識もあった」と語っており、慶応とアイドルという場所がいかに遠いものであったかを感じさせます。櫻井は自分の居場所のなさを、みにくいアヒルの子に例えて振り返っています。
「いわば自分は〝みにくいアヒルの子〟だなぁと思っていた時期がずっとあった。学校行きゃ『ジャニーズみたいなことやってる奴』と言われ、ジャニーズへ行きゃ『Jr.なのに学業優先って何だそれ』という目で見られ……」
ジュニア入りした後の櫻井は学業優先。試験のひと月前からは、仕事を休むことにしていました。そうすると、踊る場所が後ろになったり、仕事に呼ばれなくなったりしたといいますが、本人は「くやしいというより、むしろそうじゃないとおかしいと思った」と語っています。当時は、滝沢秀明を中心としたジャニーズJr.の黄金期。その中でも櫻井は王道を歩んでいたわけではなかったのです。
デビュー後のハードスケジュールも4年で卒業
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