京都での出版社勤めの時代
平野啓一郎(以下、平野) 少し話を進めますと、その後、京都に行って、アリストテレスの本などを出している出版社(大翠書院)で働き始めて、それですぐ小説家になったのかと思いきや、そうでもなかったのですね。最初の『女子大生・曲愛玲』で新潮社同人雑誌賞を取ったのが1957年、35歳のときですから、10年ぐらいは京都で働いておられたのですね。
瀬戸内寂聴(以下、瀬戸内) 京都にいたときに、『メルキュール』という同人雑誌の仲間に入れてもらって、男ばっかりで女は私1人だったかな。それでもう、そこで馬鹿にされて、「下手くそだ」って。野間宏なんかに夢中の人たちだったの。ほんとうにだめなのかなあと思っていました。
でもその人たち、誰も1人もものになってない。だから、やっぱり私は小説家っていうのは才能だと思います。あなただってそうでしょ。才能があって、まあ、いくらか努力はあるけど、あと運ね。だから何か、そういうものがないとだめです。
平野 これは意外なんですけど、最初は少女小説の雑誌に寄稿したりされていたんですね。これはまたどういうことだったのでしょうか。最初からいわゆる純文学の作品を書かなかったというのは。
瀬戸内 それは大翠書院という出版社で働いているときに、隣の席に宝塚(宝塚音楽舞踊学校)を辞めた人がいて、中島光子というのですけど、少女小説とか若い人の読む詩なんか書いて、けっこうそれが雑誌に載っているんですよ。その人が隣に座っていて、林芙美子に手紙を出して、返事なんかもらっているんです。「はあー」と思って。同い年なの、ほとんど。
それで、「へえー、宝塚でもこんな偉い人がいる」と。私もできるんじゃないかなあと思って、「少女小説ってどんなの?」と見せてもらったの。「ああ、こんなの書けるよ」と思ってちょっと送ったの。そしたら全部採用になったんですよ。そのときにペンネームも三島由紀夫に付けてもらった。
平野 瀬戸内さんは、三島由紀夫にファンレターを書いていたのですね?
瀬戸内 そう、ファンレター出してたの。そしたら、三島由紀夫から、「ファンレターには返事を出さない主義だけど、あなたの手紙はほんとに面白いから思わず返事を書きました」って来たの。それからちょいちょい往復していたんです。それで小説を書くようになったら、「あなた、手紙はあんなに面白いのに、小説がどうしてあんなに下手なんだ」って言われた。
平野 では、三島由紀夫が戦後デビューして、『仮面の告白』(1949年)とかをばっと書き始めたときにもう、すぐ読み始めたんですか。
瀬戸内 そうそう、すぐですね。本屋に行ったら、三島由紀夫の本があって、珍しいなって読んだらとてもいい。暇だったからファンレター出した。
平野 京都時代には、戦後の新しい小説などもかなり読んでいたのですね。
瀬戸内 だって出版社にいるだけだからね、呑気だった。
『花芯』への酷評
平野 最初に賞を受賞した『女子大生・曲愛玲』という小説ですけど、これはレズビアンとか、レズビアニズムとか、その他、当時としてはタブー視されていたような性が一つ大きなテーマにもなっていますけど。
瀬戸内 北京にいたときに、夫のお友だちで師範大学の教授をされていた女性がいたんです。その人の書いたエッセイが女性雑誌に出ているのを、私は以前に読んでいて、自分が中国で働いていることや、北京はいいところで、女も外へ出て行くべきだっていうことを書いてたの。とてもいい文章だったから、頭に残っていたんです。そしたら、その人が夫の友達だった。それで家に遊びに来たから、私もすぐ好きになって、向こうも好きになってくれて。
彼女は江戸っ子でしたけど、文学少女で、それで田村俊子のことを私に話してくれた。「この部屋に田村俊子が遊びに来たことがあるのよ」なんて。この部屋というのは、私たちが新婚で住んでいた北京の部屋のことね。そんなこと言ってくれて、私はどきどきしていたんです。
それで、その後、小説を書くようになったときに、非常に皆から誤解されて、いろいろいじめられたんです。どうしてかわからない。それで、この誤解っていうのはどういうことだろうと考えているうちに、「あ、あの人ちょっと書いてみよう」と思って、それで『田村俊子』を書いたんですよね。
平野 その前に、瀬戸内さんが苛められるきっかけになった、『花芯』という小説がありますけど。
瀬戸内 『花芯』は今度、映画になるの。
平野 これも実はモデルになるような人がいたんだけれども、瀬戸内さん自身のことのように勘違いされたと以前仰っていましたね。
『花芯』(三笠書房、1958年/講談社文庫、2005年)
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