作文少女はエリートの夢を見たか~少女が「少年」だった頃

不道徳なお母さんライターが、日本の「道徳教育」のタブーに踏み込み、軽やかに、完膚なきまでに解体! まずは、文明が開化された明治時代までさかのぼり、日本における「読書」と「道徳」の関係を見てみましょう。福沢諭吉が旧時代を批判して「男も人なり女も人なり」と言ったこの頃、日本の少女たちも、ほんの一瞬だけ男女平等の夢を見られたようで…

「作文」が明治サクセスの秘訣

努力・友情・勝利にわんぱく主義、ヤンキーの抗争のような桃太郎の鬼退治。明治時代の少年文学の主人公は男の子ばかりで、女の子は蚊帳の外である。だいたい「少年」という言葉からして、女子不在という印象を受ける。それでは一体、「少女」の読者はどこにいたのだろう。

実は明治中期くらいまで、「少年」は男女問わず、若者全般を広く指す言葉だった。「少年老いやすく学なりがたし」「少年に学ばざれば老後に知らず」ということわざにおける「少年」には、子供というより「知的エリートを目指して勉学に励む若者」というニュアンスがある。明治10年に創刊された日本初の全国規模の子供雑誌『穎才新誌(えいさいしんし)』は、まさにそのような立身出世を夢見る少年が作文を投稿するメディアだった。

作文といっても、現代のような「運動会で感じたことを自由に書きなさい」的感想文ではない。模範文をもとに、大人と同じような漢文調の意見文や手紙、漢詩などを書くこと、それが「作文」だった。当時は手紙から書類まで正式な文書は漢文調で書かなければならなかったから、まずは漢文をすらすら書くという高いハードルを越えなければエリートにはなれなかったのである。

作文少女たちの活躍

作文なら、今も昔も女子の活躍しどころだ。『「少女」の社会史』(今田絵里香)によれば、『穎才新誌』創刊当初、投稿者のうち実に37.4%が女子だったという。男子投稿者のみならず女子も「少年」を自称して、「少年ハ宜ク勉ムヘキノ説」といった作文を寄せることもあったようだ。

信じがたいことに、創刊当初は年端もゆかない少女たちが男女同権を論じることもあった。「アジアには男が女を奴隷のように見る風習があるが、上等の人は男女同権を論ずるものだから、我が国の文明が進めば女も学問をして軽んじられることはなくなるだろう」という主旨の「男女同権ノ論」(明治10年6月23日号)や、「女も学問に励めば賢人となって官吏に登用され幸せになれる」という主旨の「男女仝権如何」(明治11年2月23日号)は、それぞれ10歳、13歳の少女による作文だ。現代の作文コンクールでも男女平等を論じる少女の作文が賞を獲るとは思えないから、19世紀の日本で少女フェミニストがのびのびと自己主張していたことに驚かされる。

「男も人なり女も人なり」と旧時代の男女不平等を批判した福沢諭吉『学問のすすめ』が教科書として使われていたくらいだから、明治10年前後までは平等や個人主義をおおっぴらに主張できる自由闊達な空気があったのだろう。裕福な家庭の子女に限られるとはいえ、少女が素朴に学問による立身出世を夢見ることができた時代もあったのだ。

酒タバコはエリート男子小学生のたしなみ?

「『穎才新誌』の変貌」(桑原三郎)によれば、作文投稿者のうち最年少と思われるのは7歳男児で、タイトルはなんと「煙草」である(明治10年8月4日号)。テーマもたいがいだが、文体も「能ク人ノ倦鬱ヲ爽快セシム。然レドモ吸呑多量ニ過レバ極メテ健康ニ害アルモノナリ」と、7歳児らしさのかけらもない。11歳男子からも、「友達と本を読んでいて内容が難しくてわからないときは本をおいて一緒にキセルで煙草を吸う」という内容の作文「喫烟説」(明治11年5月11日号)が寄せられている。明治27年になってようやく文部大臣井上馨が「小学校ニ於イテ生徒ハ喫煙スルコト及煙器ヲ付帯スルコトヲ禁ズベシ」と小学生の禁煙を命じる訓令を出しているくらいだから、煙草を吸う小学生は特に珍しくもない光景だったようだ。

同様に、12歳男子が酒をたしなむことを語る「夏日飲酒之記」(明治11年7月20日号)も何の問題もなく掲載されているので、子供に酒煙草はご法度、という道徳感覚はまるでうかがえない。明治10年頃の模範的「少年」像は、わんぱくでも健康スポーツ少年でもなく、勉学に励んで大人と同じような文章を書く大人予備軍だった。大人と子供の敷居が低い、ある意味テキトーな時代であったからこそ、女子も「少年」に参画可能だったのだろう。

儒教主義の復活と消える男女平等

もちろん当時、女子が勉学に励んだところで男子のように成功する道などないに等しかった。士農工商の身分制度が撤廃され、子供たちがそろって同じ学校に通うようになったことで、男女不平等もそのうち解消すると信じられる余地もあったのかもしれない。しかし「男も女もみんな勉強して立派な人間になれば豊かな生活を送れるし国家も発展してみんなハッピー♪」という素朴な平等幻想は、自由民権運動の反動で儒教主義教育が復活し始めたことで、早くもはしごを外されてしまう。明治13年に女子の裁縫必修と男女別学を原則とする教育令が公布され、それまではわずかにいた女子生徒も、中学校から一掃されることになった。

続いて明治15年に同誌上で起きた「男女不同権論争」は、女子投稿者の意欲をそぐのに十分だったろう。おおかたの男子投稿者が、知的に劣る女子が男子と対等に学問が可能などありえないと考えていたことが明らかになったのだから。「男も人なり女も人なり」は、日本人には早すぎた思想だった。『「少女」の社会史』によれば、かつては全投稿者の3割以上を占めた『穎才新誌』の女子投稿者は、明治15・16年を境にほぼ消え失せる。

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堀越英美

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fmfm_nknk 更新されてます。明治初期のはかなく消えた女子小中学生フェミニズムとか勉強できる子卑屈じゃなかった時代の話です。たぶん一週間無料。> 10ヶ月前 replyretweetfavorite