マイナスの感情を確実に乗り越える方法

悩みや心配、悲しみ、怒り、憎しみ……そんな「マイナスの感情を確実に乗り越えられる方法」はあるでしょうか? あの「我思う、ゆえに我在り」であまりにも有名な近代哲学の祖・デカルトが、私たちに降りかかるマイナスの状況にいかに対峙すべきか、「まったく新しい視点」からその答えを解き明かしてくれます。スペシャルな人生指南、ここに新連載!

前書き

 一六四五年の五月ないし六月のこと、四十九歳のフランス人哲学者デカルトは、自分より二回り以上も若い女性に手紙を書きます。ラブレターでしょうか。ある意味でそうだと言えますが、まずは次の一文を読んでみてください。

「私自身にも経験のあることですが、殿下とほとんど同じかそれ以上に危険な病苦が、今しがたお伝えしたやり方で治ったのです。と申しますのも、私の母親は数々の心労が原因で肺を病み、私を産んでから数日して死にました。私は母親から空咳と青白い顔とを受け継ぎ、二十歳すぎになるまでそうでした。そのためか、それ以前に私を診た医者は全員、私は若死にすると宣言したのです」

 この手紙を受け取った人物は、それ以上は無理だと諦めていたデカルトよりも、その時点で少しばかり長く生きられた王女エリザベトです。彼女は当時、二十七歳でした。

 王女エリザベト—キリスト教のカトリック派とプロテスタント派の対立から十七世紀のヨーロッパに勃発した三十年戦争のために、ドイツ西部のライン地方の領地を失うことになったプファルツ選帝侯フリードリヒ五世の長女。彼女はオランダのハーグで悲惨な亡命生活を送りながら、一六四三年にデカルトと哲学的文通を始めたのでした。

 その話題は、哲学、神学、数学など多岐にわたりましたが、なかでも注目にするのは、「若死にする」と宣告された彼をして、自分と「ほとんど同じ」くらい「危険」と言わせしめた彼女の病苦とその対処法に関する、そう言ってよければ医学的・心理学的なものです。

 それでは何が彼女を苦しめたのでしょうか。

 本人が同じ年の六月二十二日にデカルトへ送った手紙のなかで用いているフランス語で言えば「メランコリー」つまり憂鬱症です。そう、彼女は自身とその家族を襲った政治的・宗教的悲劇のために強い抑鬱を示し、そこから恢復するための手立てを彼に幾度か尋ね、その返答の一つがここに引用した手紙のなかに書き記されているのです。

「憂鬱」—本書のタイトルにも用いた言葉ですが、二つのことを意味しています。

 まず「憂」ですが、これは「心配」や「苦悩」を意味します。「憂慮する」「憂き目にあう」「杞憂を抱く」といった難しめの表現に使われています。常用漢字の一つとして中学校で習いますが、画数が多いこともあり、とっさに書き方を思い出せないかもしれません。

「鬱」のほうはどうでしょうか。こちらも実は二〇一〇年に常用漢字に指定されたので、本来であれば書けたり読めたりしないと恥ずかしいのでしょうが、この漢字を学校で正式に習わなかった読者もおられるかもしれません。いずれにせよ、その意味はなかなかに興味深く、漢字辞典が教えるところによれば、「茂る」「群がる」や「蒸れる」「塞がる」といった意味があるようです。

 つまり憂鬱さとは、心配事や悩み事が熱帯雨林のように心のなかに生い茂り、また、そのむせ返るような湿気よろしく心のなかをじっとりと濡らし、息ができないくらいの状態だ、ということが分かります。ですから、このような状態に陥ってしまった人はさぞかし辛いだろうと思います。

 それでは、デカルトも憂鬱症に悩まされていたのでしょうか。本書のタイトルからそう考える読者もおられるでしょう。答えはyes and noです。単にyesともnoとも答えられない、つまり、どちらとも言えない、というのが実情です。

 なるほど、デカルトがひどい虚弱体質であったことは先ほどの手紙から分かりますが、王女エリザベトのように病としての憂鬱症を患っていたかと言えば、そのことを確証する資料はなにもありません。しかし、「哲学者」として気が滅入るような日もあったと思います。どういうことでしょうか。

 彼は、一六四九年三月三十一日、この世を去る約一年前に、スウェーデンはストックホルムから、外交官の友人シャニュに宛てて次のように書いています。自分がたまに祖国フランスはパリに戻ると、誰一人として自分の哲学について話して欲しいとは思っておらず、自分のことをただ「象か豹のようなものとして」見た……「物珍しさのためであって、何かの役に立つからではない」、と。

 好奇の目で見られてしまうというのは、もちろん彼が「新哲学」の旗手として、西洋哲学史に綺羅星のごとく輝く『方法序説』(一六三七年)や『省察』(一六四一年)の著者として「セレブ」であったからでしょうが、やはりなんと言っても「変人」だったからです。

 いや本当にそうだったかどうかは確かめようがありません。むしろ重要なのは、そのような輩として受け止められたということです。それにしても、どうして「哲学者」はそのような「憂き目」にあってしまうのか。

 理由はシンプルです。世間の常識を徹底的に疑うからです。日々の生活のなかでいろいろなことを考えて、ちょっとおかしいな、どうなっているのだろう、という違和感が湧いてくるや否や、その思いを放っておかない。そして、この思いに真正面から取り組み、世間では当たり前に思われていることを一つひとつ批判的に検証していく。その過程で、自分なりに納得することもあれば、やはりしっくりこないことも残る。そしてそのような、もやもやとした感情を抱きながら、毎日を悶々と生きていく。

 だからといって、何もかも投げ出して、完全に隔離された無人島のようなところで「仙人」のように暮らすわけにもいきません。あくまで一人の「市民」として他の人々と一緒に日々の生活を送っていかなければならない。時には世間の常識に異議申し立てはするけれど、それでも折り合いをつけながら、生きていかなければならない。と同時に、少しでもこの世界が住みやすいものになるよう、周りの人が想像だにしなかったものの見方や考え方を提示しようとする。

 そして、デカルトという人もその例外ではなかった……私にはそう思えるのです。だからこそ、憂鬱症という病に悩む王女エリザベトに、斬新な視点からアドバイスを与えることができたのではないでしょうか。

 実際に、彼は次のように書いていました。

「私自身にも経験のあることですが、殿下とほとんど同じかそれ以上に危険な病苦が、今しがたお伝えしたやり方で治ったのです」

 いったいどのような「やり方」でしょうか。それを本書で解説していきます。彼女ほどではないにせよ、毎日の生活をなんとなく鬱々と過ごしている方に少しでも楽になっていただきたいと思ってのことです。

 ただし、本書ではこの「やり方」をいろいろな角度から論じていくつもりです。なかには毎日の生活にすぐには役立てられないようなアドバイス、それどころか一見したところ「アドバイス」とすら言えないようなものも含まれているでしょう。もちろん、冒頭に参照した王女エリザベト宛ての手紙を実際に読み解きながら、この「やり方」そのものを直接的かつ主題的に論ずる箇所もあります。

 いずれにせよ、それぞれの章は読み切りが可能な体裁になっていますから、どこから読み始めていただいても構いません。ご自分にとって気になる「動詞」を選んで、そこから読んでみるのも一興です。もちろん、通常の読み方をしてくだされば、それなりの読後感はお約束できます。

 ともかく本書を二十一個の動詞を解説した「辞書」や「参考書」のように活用してください。日常で分からない単語があったら辞書に当たるように、勉強していて解けない問題があったら参考書に頼るように、毎日の生活で困ったこと、立ち止まって考えてみたいことがあったら、本書の出番です。

 それではデカルトとともに出発進行! 相手はどことなく憂鬱そうで不機嫌かもしれませんが、それだけに道中一緒に付き合っていれば面白いところもある男です。

*本書の引用文のなかで補足的な説明は亀甲(きっこう)括弧(かっこ)に挟みます。また強調については、傍点(ぼうてん)を付します。なお特段の断りがない限り、原典からの翻訳はすべて私によるものです

この連載について

デカルトの憂鬱

津崎良典

悩みや心配、悲しみ、怒り、憎しみ……そんな「マイナスの感情を確実に乗り越えられる方法」はあるでしょうか? あの「我思う、ゆえに我在り」であまりにも有名な近代哲学の祖・デカルトが、私たちに降りかかるマイナスの状況にいかに対峙すべきか、「...もっと読む

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hokeypokey2012 https://t.co/nsoT9SZFVZ 2年以上前 replyretweetfavorite

Lifehack_Antena ぼくさーさんのツイート: "イイネ!! 経歴を見ると普通の人に見えるんだがハテサテ。 誤解を承知で言えば 2年以上前 replyretweetfavorite

boxeur0211 @SARUBOBOorLIEK イイネ!! 経歴を見ると普通の人に見えるんだがハテサテ。 誤解を承知で言えばデカルトによる「自己啓発本・ライフハック本」のようだ。 https://t.co/SQorYzS8cd P・G・マハトン… https://t.co/LcHow8ydpF 2年以上前 replyretweetfavorite

hollyhock2380 @waymaru_kenpoo 明日出版のデカルトの憂鬱がおすすめ(´◉◞౪◟◉) 試し読みができるサイト https://t.co/9YBgpn77tX 2年以上前 replyretweetfavorite