「もし、食い逃げだったら、どうする?」
「どうするって、下手に追っかけたら、何するかわからないですよ、そういう人って」
「オッサン一人くらい、俺ら二人掛かりなら何とかなるだろ?」
「いやでも、ナイフとか持ってたらどうします?」
「世の中、そんな物騒なのかよ。ヤベえな」
「警察に通報すりゃいいんじゃないですかね。無理しない方がいいですよね」
男は、今村らの視線には気づいてはいないようだ。緊張した様子で深呼吸をすると、待ち構えていたかのように、ポケットから透明の液体が入ったガラス瓶を取り出した。男は背を丸め、目の前に置かれていた辛味ダレの容器を手にし、ふたを開ける。そして、持ってきたガラス瓶の中の液体を、タレの中に入れたのだ。
今村は、思わず声を上げそうになって、口を押さえた。一体、男は何をしたのだろう。あの液体はなんなのか。不特定多数の人を狙った、毒物による無差別殺人? 三葉食堂を潰すための工作? いろいろ理由を思い浮かべるものの、のんびりした片田舎の食堂には、どれもしっくりこない。
「なんですか、あれ」
「俺だってわからねえよ。でも、なんか入れたな」
「毒とかじゃないですよね」
「やめろよ、超怖えじゃねえかよ」
食い逃げならとっ捕まえる、と息巻いていた北島が明らかに失速し、腰が引けている。
「あの、お味、足りなかったかしら」
今村が目を離していると、いつの間にか、オバちゃんが男の横について、辛味ダレの容器を指さしていた。男は、目を丸くして、オバちゃんの様子を見ている。
「でも、みなさんが召し上がるものなのでね、何か入れて、味が変わっちゃうと困るのよねえ」
北島の顔色が変わる。今村も、思わず腰を浮かせた。
男は、虚を衝かれたのか、一瞬、動きを止めた。だが、次の瞬間、液体を混入させた辛味ダレの容器を引っ摑み、すんません、と一声叫ぶと、オバちゃんを突き飛ばして立ち上がり、出口に向かって走ろうとした。
「ちょ、ちょっと」
咄嗟(とっさ)に、今村が男の進路に立ちふさがる。だが、男は「どけ!」と一言怒鳴り、今村の顔を殴りつけてきた。二十三年の人生で、人様に殴られた経験など一度もない。あまりの衝撃に驚いて、今村は腰からへたり込んだ。
「おい、何やってんだよバカ!」
北島の怒号。入口の扉が乱暴に開けられる音。女性の悲鳴。
今村が、正気を取り戻した時にはすでに、男は外へ飛び出していた。
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