書き始めたのは女学校時代
平野啓一郎(以下、平野) その頃、何か書き始めたりしていたんでしょうか。小説とか短いものとか、ご自分で書いたりしていましたか。
瀬戸内寂聴(以下、瀬戸内) 書くのは、女学校(徳島高等女学校)に行ってからね。女学校に入って、絵のとても上手なお友達がいて、彼女に「挿絵画を描いてね」と言って、私は何か小説みたいなものや詩なんか書いて、原稿用紙を綴じた文集を作ったりしていました。
平野 そうですか。それはまだ残っているんですか。
瀬戸内 いや、残ってない。
平野 その頃はもう将来、小説家になりたいとか、そういうことは考えました?
瀬戸内 小学校3年のときに、先生が「名前は書かないでいいから、大きくなったら何になりたいってお書きなさい」という時間があってね。一人ひとりが書いたものを、先生が読んで発表するの。髪結いさんになりたいとか、早く結婚したいとか、お母さんになりたいとか、いろいろなものがあるなかに、小説家になりたいというのが一つあったんですよ。そしたら皆が私の方を見るの。だから、そういう感じだったんでしょうね。
平野 もうすでにクラスの皆からは、瀬戸内さんは、本を読むのが好きで文章も上手というふうに思われていたのですね。
瀬戸内 「綴り方」と言っていましたね。
平野 瀬戸内さんが東京女子大学に進学されるのは、1941年だと思うんですけど。
瀬戸内 もう覚えてない。でもそのとき、「紀元二千六百年」というのがありましてね。
平野 ということは、1940年ですかね。大学に入る前の四国にいらしたときは、当時もう太平洋戦争が始まる直前で、日本は中国とずっと戦争をしていたと思うのですが。でも先ほどからお聞きしているかぎりでは、読みたいものが手に入らないとか、そういうことはあまり感じられなかったのですね。
瀬戸内 そうですね。光慶図書館に通っていましたから。小学生でそこに通っている子は、あんまりいなかった。そこへ行ったらもう外国の童話の翻訳とか何でもあって、全部そこで読みました。
平野 それで大学に進学されるわけですが、当時、徳島から東京の女子大に行くような人は周りにいたんですか。
瀬戸内 女学校の卒業生が200人、そのなかで4、5人、さらに勉強する人がいる。だいたい京都に2、3人行くのね。私のときは、東京に行ったのは2人でした。1人は日本女子大で、私は東京女子大。
平野 なぜまた東京に行こうと、そのときに思われたんですか。
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