一故人

ロバート・エドワーズ、三國連太郎—2013年4月の物故者

体外受精技術の確立によってノーベル賞を受賞し、不妊治療に大きな足跡を残したロバート・エドワーズ。戦後のスクリーンを強烈な存在感で賑わせた名優・三國連太郎。2013年4月に亡くなったこの2人をライターの近藤正高さんが論じます。 また、彼らと同じ月に没したイギリスのサッチャー元首相を扱った前回(「マーガレット・サッチャー――女王にも譲歩しなかった『鉄の女』」)も読み逃した方はご覧ください。

 

165マイルを往復しながら実現した「体外受精」—ロバート・エドワーズ(2013年4月10日没、87歳)

2010年、イギリスの医学者でケンブリッジ大学名誉教授のロバート・エドワーズが、「体外受精技術の確立」の業績からノーベル生理学・医学賞を受賞した。

とはいえ、エドワーズが、ヒトの卵子の体外受精に成功したのが1968年(論文発表はその翌年)、その技術を応用して世界初の体外受精児(いわゆる試験管ベビー)が誕生したのは1978年であり、彼がノーベル賞に選ばれた時点ですでに、体外受精で生まれた人々は世界で400万人(日本でも21万人以上)を超えていた。

不妊治療に革命をもたらした画期的な技術であること、しかもすでに世界中に広まっていたことを思えば、あまりに遅い受賞だったともいえる。なお、このとき、エドワーズの共同研究者だった産婦人科医パトリック・ステプトーはすでにこの世におらず(1988年死去)、単独で栄誉に浴したエドワーズもまた、当時すでに85歳という高齢から受賞式に出席することはかなわなかった。

日本における人工授精の第一人者で畜産学者の入谷明も、エドワーズになかなかノーベル賞が授与されないことに疑問を抱いていたらしい。本人と会ったとき「君はノーベル賞に値する研究者だ」と賛辞を贈った。すると「ありがたいが、ヒトの体外受精は倫理的問題があると言われた。それで引っかかる面があるのかもしれない」との答えが返ってきたという(『毎日新聞』2010年10月5日付)。実際、研究当時より、倫理面から人工授精の技術を危険視する意見は各方面からあがっていた。ローマ教皇庁もそのひとつで、エドワーズのノーベル賞決定時にも、「深刻な道徳的疑問を引き起こす」との声明を発表している。

軍隊から復員したのち、バンガー大学で農学を専攻したエドワーズは、最終学年になって動物学科に転科している。自分の関心は、小麦など植物の種よりむしろ動物の種、すなわち卵子や精子のほうにあることに気づいたからだという。

大学卒業後の1951年、エジンバラ大学の動物遺伝研究所に入った彼は、マウスの人工受精の研究に従事し、主に染色体異常マウスを人工的につくるという課題をこなした。ほかの若手研究者たちとも協力して、マウスの卵細胞の変化を調べるうちに、ヒトの卵子の培養に興味を抱くようになる。のちに結婚するルース・ファウラーも、この時期に出会い、ともに博士号を取得した研究仲間であった。

その後、米カリフォルニア工科大学で1年間、リサーチフェローを務めたのち1958年秋に帰国、ロンドン郊外のミル・ヒルの国立医学研究所に入る。在籍中の5年間には、妻のルースとのあいだに3人の娘を儲けている(のち双子が生まれ5人となる)。自宅には友人たちがよく訪ねてきた。そのなかに子供が欲しいのにできない夫婦がおり、彼らが自身の娘を抱きしめているのを見たとき、エドワーズは初めて、人間の受精卵を女性の子宮に移植できないものだろうかと考えたという。

やがてエドワーズは、知り合いの産婦人科から卵巣組織の提供を受け、ヒトの卵子の培養実験を始める。それとともに研究の協力者を集めようと、医師や学者たちを訪ねまわったものの、試験管やシャーレのなかで受精を行なうことへの倫理的な反感から断られることもしょっちゅうであった。当時の研究所所長も、彼の実験には反対であった。数カ月のちに新たな所長が就任し、一転して実験の許可を与えたが、エドワーズの研究所での任期はすでに終わろうとしていた。

その後、1963年にグラスゴー大学を経てケンブリッジ大学の生理学研究所に移った彼は、動物の卵子を使って実験を続けた。だが、ヒトの卵子を使った実験は、アメリカに渡り数度行なったくらいで、ほとんどできずにいた。そもそも、実験で必要とされる卵巣の卵子や卵管内の精子を採取するには、通常の手術では患者に負担が大きすぎた。それでも、何かいい方法はないものかと、エドワーズは暇さえあれば図書館へ出かけ、新聞や雑誌に注意深く目を通していた。そして1967年のある日、雑誌で腹腔鏡(内視鏡の一種)という器具の存在を知るにいたる。これを使えば患者の負担も軽く済むとの説明に、わらをもつかむ思いで、その記事を書いた産婦人科医に電話をかけた。その医師こそステプトーだった。エドワーズの願い出を聞いたステプトーは、「一緒にやってみましょう」と快諾する。

だが、エドワーズはすぐにステプトーに会いに行こうとはしなかった。というのも、ステプトーの勤務する病院は、イングランド中部のオールダムという、ケンブリッジからは直線距離にして165マイル(約266キロメートル。日本でいえば東京~名古屋間に相当)も離れた街にあったからだ。オールダムで共同研究をすれば、自宅を留守にすることも増え、家庭は崩壊してしまうのではないか……彼はそのことを心配して、なかなか踏み切れずにいた。

しかし半年後、エドワーズはロンドンの王立学会での産婦人科の会議に出席した際、偶然にもステプトーと初対面を果たす。ステプトーはこの会議で、ある出席者が腹腔鏡は卵巣検査に役立たないと発言したのに対し、「腹腔鏡を使えば卵巣も卵管も、腹腔内のすべてが検査できる」と毅然とした態度で反論していた。それを見てエドワーズは、「私が信頼し、尊敬し、一緒に仕事ができる人はこの人だ」と直感したという。

これを契機に2人による、ヒトの体外受精、さらに受精卵を子宮に移植(胚移植)して最終的には妊娠・出産をめざすプロジェクトがスタートを切った。エドワーズはそのために、ケンブリッジ~オールダム間の悪路を、自ら運転するクルマで頻繁に往復することになる。一方、ステプトーは患者とその夫たちに協力を求めた。すると不妊治療の可能性を信じ、また研究を助けたいとの思いから、少なからぬカップルが快く卵子提供を申し出てくれた。ステプトーたちは、そんな彼女らに不当な希望を与えたりしないよう、危険性について事前に説明するなど十分に配慮したうえで実験を始めたのである。

世界初のヒトの卵子の人工受精は、ステプトーではなく、エドワーズの旧知の産婦人科医から提供された卵子により、1968年3月、ケンブリッジで成功した(ただし卵割して胞胚になるまでにはいたらず)。その後、オールダムではその再現性確認のため実験が繰り返された。翌年2月には科学雑誌『ネイチャー』に論文が掲載され、世界に衝撃を与える。そのニュースは好意的に受けとめられるよりも、強い批判を招いた。

BBCテレビは彼らの研究を、「(物理学者の)ラザフォードが原子を分裂させた—それがどんな結論を出したのかわれわれはすべて知っているが」という陰鬱なナレーションに、広島への原爆投下とエドワーズのケンブリッジの研究室とをオーバーラップさせるというセンセーショナルな映像で紹介した。これを見た妻のルースは、「うちがラザフォードとどういう関係か知らないくせに」とくやしがったという。じつはルースはラザフォードの孫娘だったのだ。

批判のなかには、オルダス・ハクスリーが反ユートピア小説『すばらしい新世界』(1932年)で描いたような、人間が工場で製造されるような未来の到来を危惧する論調が少なくなかった。それに対してエドワーズとステプトーは、「われわれの希望は、不妊症の治療だ。試験管ベビーを大量生産するなど論外だ」と強調した。

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近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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コメント

donkou 拙連載、今から約1時間ほど無料でお読みいただけます。三國連太郎のデビュー当時の経歴詐称とその理由もあきらかに! 5年弱前 replyretweetfavorite

donkou 「一故人」更新しました。本連載で科学者をとりあげるのはエドワーズが初めて。その著書『試験管ベビー』もユーモアがあって面白かったです。 5年弱前 replyretweetfavorite