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食事が済むと、サトルは、部屋の隅に置いてある服に着替える。色の薄くなったポロシャツと、ややくたびれたスラックス。そして、ゴムが伸び気味の靴下。外に出ることはあまりないが、母親は毎日、服を用意していく。このまま、引きこもるだけの生活になってはならないという母の思いなのだろう。有難いとは思いつつも、気持ちが沈んだ。特に、靴下をはくのには抵抗がある。外に出ろ、と言われているような気になるからだ。
寝間着から着替えると、サトルはお盆を持って一階に降り、食器を返す。いつものように、父が仕込みをする横を通って、厨房の流しに食器を置こうとすると、騒がしい客が、何やら母親に詰め寄っているのが見えた。
男は、五十代くらいだろうか。色黒の肌に短髪、紫の色メガネをかけた強面で、禁煙パイプのようなものを行儀悪く咥えていた。この暑いのに背広姿で、ルーズに締めたネクタイはやたら派手だ。
「ちょっと、この人に、バス停を教えてきてあげてくれないかね」
「えっ」
「この人、津田先生のところに行きたいんだって」
母親が「津田先生」と言うのは、津田光庵という、地元の陶芸家のことだ。陶芸の世界ではかなり著名な人物だそうだが、三葉食堂の常連で、サトルも何度か店で見掛けたことがある。津田は「津田窯」という窯元を、結構な山の中に構えている。
この辺りはのどかなもので、駅前にはタクシーもたまにしか停まっておらず、コンビニもない。バス停は駅前のロータリーにいくつかあるが、土地勘のない人間には停留所名と目的地が一致せず、どのバスに乗ればいいのか見当がつきにくいだろう。男は津田窯を訪ねて来たものの、行き方がわからなくなって、開店直前の三葉食堂に助けを求めに来たようだ。
「僕、が?」
「もう、店開けなきゃいけないからねえ。ちょっとそこまでだから、行ってきてあげてよ」
駅前ロータリーのバス停は店を出てすぐのところにあるが、見ず知らずの人と並んで外に出るという行為は、サトルにかなりの緊張を強いる。母親も、それはわかっているはずだ。なぜそんなことを言うのかと、恨めしい気持ちになった。
「あー、悪ぃな、よろしく頼むわ」
男は、サトルが表情を曇らせたことに気づいたのか、さっと名刺を取り出し、サトルに手渡した。見ると、剛田(ごうだ)、という名前が記されている。横には、「GODAグループ」という会社名と、「代表取締役」という仰々しい文字が並ぶ。列記されている店舗名から察するに、どうやら、夜のお店を経営している類の人であるようだった。