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放課後。
早いもので、ボヤ騒ぎからあっという間に二週間が過ぎた。暑かった夏も終わって、そそくさと秋がやってくる。もう、夕方になると肌寒い風が吹くようになった。
授業が終わる。いつもだったら、手を洗いに水飲み場へ走るところだ。だが、彩子のカバンの中には、ハンドソープも、アルコールスプレーも入っていない。手が汚い、洗いたい、という衝動を、歯を食いしばって我慢する。絶対に、手を洗ってはいけないのだ。
手洗いは、彩子にとって、「汚い」という強迫観念を和らげるための儀式だった。だが、儀式を徹底すればするほど、外の世界を汚いものだと認識してしまう。今は、曝露(ばくろ)反応妨害法、通称・ERPという治療法を試しているところだ。手洗いという「儀式」を行わず、わざと自分を汚すことで、清潔という幻想で乖離(かいり)していた彩子の手と外の世界を、元通り、一つの世界に戻そうというものだ。
開始から数日は、地獄だった。自分の手がバイキンに埋め尽くされているような気がして、ご飯を食べることすらできない。手が洗えないことに苛立って、家の中で泣きわめいたりもした。それでも、カウンセリングを受け、周りがサポートしてくれているお陰で、何とか二週間続けることができた。まだ、自分の手がバイキンに侵されているような感覚はある。それでも、手を洗いたいという欲求はなんとか抑えられるようになってきた。
クラスメイトたちに、じゃあね、と手を振りながら、教室を出る。隣には、珍しく緊張した面持ちの菜々美がいた。彩子が、行こっか、と声を掛けると、小刻みに何度か頷いて、泣きそうな顔をした。
「大丈夫だってば」
ざわつく校舎を出て、部室棟に向かう。大会明けの今日は、サッカー部の練習はお休みだ。部室には、誰も来ていないはずだ。
部室の前に二人で並ぶ。菜々美が、くるりと背を向けて帰ろうとするところを、彩子が手を握って止めた。素手で、しっかりと菜々美の手を握りしめる。初めて触れた菜々美の手は、思ったよりも小さかった。
「失礼しまーす」
多くの部員たちが触れているであろう、部室のドアノブを摑んで、彩子は部室のドアを開けた。まだ壁に焦げ跡の残る部室に、ポツンと一人、立っている人がいる。彩子と菜々美の姿を見ると、よう、と手を上げた。来栖先輩だ。
菜々美の耳元で、がんばれ、とささやき、背中を平手で叩いた。菜々美が、ととん、と前に出る。彩子は、軽く手を振り、中には入らずに、部室のドアを閉めた。
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