突然の訃報
「美鈴ちゃん、こんなときにいうべきことではないかもしれないけど……森下書房は倒産するかもしれない」
喪服に身を包んだ御園保(みそのたもつ)が、華奢な背中に向かって絞り出すような声で告げた。
制服姿の森下美鈴(みすず)は、葬儀を終え、自宅のリビングの窓際に腰かけて庭を眺めていた。東京・文京区にある木造の一軒家は、小さいながらも松やつつじなどが植わっていて、よく手入れされている。美鈴は、振り向くことなく答えた。
「ふーん、そっか……」そういったきり、美鈴はおもむろに夜空を見上げた。すでに涙は枯れていた。
突然のことだった。3日前、父親の森下武(たける)は出張先のホテルの部屋で突然倒れ、そのまま帰らぬ人となった。心筋梗塞だった。ホテルの従業員が部屋に入ったときにはすでに冷たくなっていたという。
一人娘の美鈴が父の急逝を知ったのは、高校の終業式を終えた直後だった。「来年は受験勉強で遊べないから、高2の夏休みは思い切り遊ぼう」と教室でクラスメイトと盛り上がっていると、スマートフォンが鳴った。森下書房で財務・経理を担当する御園からだった。
森下書房の社長を務める森下武、つまり美鈴の父親と、御園は大学時代、同じサークルの仲間で、それぞれ別の会社で社会人経験を経たあと再会し、2人で出版社・森下書房を立ち上げた。30歳のときだった。本好きだった森下武が編集を担当し、コミュニケーション力が高かった御園が営業を担当した。社長は、ジャンケンに負けた森下武が務めることになった。
それから30年、雑居ビルの小さな部屋からスタートした出版社は、文京区で3階建ての自社ビルを構えるまでになった。2人だったメンバーも15人に増えた。森下書房の本のジャンルは、文学、科学、歴史、経営、ノンフィクションなどの専門書が中心で、いわゆる〝お堅い本〞が多い学術系出版社だ。小さい出版社だが、丁寧な本づくりで堅実に成長を続けた。書店員から「派手さはないけど、いい本をつくる」と評価されることは、森下武と御園にとって、ささやかな自慢だった。
森下書房で苦楽をともにしてきた御園は、森下武にとって経営の右腕であり、かけがえのない同志だった。そのため、物心ついたころから自宅に出入りしていた御園は、美鈴にとって「親戚のおじさん」という感覚だった。とはいえ、御園が美鈴のスマートフォンに直接電話をかけてくるなんてめずらしい。美鈴は、胸の奥がざわつくのを感じた。
嫌な予感は当たってしまった。父がホテルで亡くなっていたことを知らされたのだ。美鈴は、電話の内容をほとんど覚えていない。あとで聞いたところによると、美鈴はしばらく沈黙したあと、「家に帰って、ごはんつくらなくちゃ」とつぶやくようにいって、電話を切ったという。突然の訃報にショックを受けて、頭が真っ白になってしまったのだろう。なぜ、そんなことをいったのか、自分でもわからない。
星の王子さま
森下武の葬儀後、御園は窓際で一人たたずむ美鈴に話しかけるのをためらった。
悲しみに暮れる美鈴に追い打ちをかけるようなことを告げることに気が引けたし、そもそも森下書房がつぶれそうなことなど、女子高生の美鈴にとっては関係のない話かもしれない。
しかし、森下武と一緒に森下書房を育ててきた御園にとって、会社の窮地を一刻も早く、娘である美鈴に話すことは当然であるように感じた。森下書房に残された時間が少ないという焦りが、そうさせたのかもしれない。
「森下書房は倒産するかもしれない……」
森下書房がつぶれそうだという話を聞いても、美鈴に動揺した様子は見られなかった。すべてを受け入れているかのようだった。美鈴は夜空を見上げたまま口を開いた。
「私、さびしいときは夜空を見上げるの」御園も夜空を仰ぎ見た。
「東京でも意外と星が見えるんだなぁ」
「そう。このあたりは住宅街であかりも少ないからけっこうキラキラしているでしょ」
「夜空を見るなんて、美鈴ちゃんも、なかなかロマンチストだね。この間まで筋トレばっかりしている空手少女だったのに」
「それって、昔の話!ミソじいの中で私の記憶、中学生で止まってるでしょう。もうっ!」美鈴は小さいときから御園のことを、親しみをこめて「ミソじい」と呼んでいる。見た目が老けた御園ならではの呼び名だ。
「で、いつから夜空を見上げるようになったの?」
「小学3年生くらいかな。ママが亡くなってから」
「そうか……ごめん、こんなときにつらいことを思い出させて」
「ううん、いいの。ママが亡くなってから、私はずっとふさぎこんでいたんだけど、パパが一冊の本を渡してきたの。ママが好きだった本だよ、って」
「どんな本?」
「サン=テグジュペリの『星の王子さま』。知ってるでしょ?」
「ああ、もちろん。森下書房からも翻訳本が出版されているからね」
「うん、その中に、こんな文章があるの」そういって、美鈴は『星の王子さま』の一節をそらんじた。
ぼくは、あの星のなかの一つに住むんだ。
その一つの星のなかで笑うんだ。
だから、きみが夜、空をながめたら、星がみんな笑ってるように見えるだろう。
すると、きみだけが、笑い上戸の星を見るわけさ。
「星が笑っているか……」御園は、美鈴に向けていた視線を再び夜空に戻した。
「当時は、読んでもよくわからない表現もあったけど、この文章だけはスーッと心にしみこんできたの。それ以来、ママは星になったと思ってる。さびしいときは、夜空を見上げると、ママの笑顔が浮かんで、心が軽くなるんだよね。『あしたから頑張ろう』って元気がわいてくる。どう?なかなかのロマンチストでしょ?」美鈴はそういいながら、舌をペロッと出して照れくさそうにしていた。
「ということは、お父さんも星で笑っているかもしれないな」
「うん。でも、パパは照れ屋だから探すのがむずかしそう」
「月のうしろで隠れているかもな」御園がそういうと、美鈴はふふふっと笑った。そんな姿を見て御園は少し安堵するとともに、最愛の父親を突然亡くしたばかりなのに気丈に振る舞う美鈴の心の強さに感心するほかなかった。すると美鈴は御園のほうに向き直り、話題を戻した。
「ねぇ、ミソじい。森下書房は本当につぶれるの?」
御園もすぐさま真剣な表情になった。「本当は、もう少し落ち着いてから話そうかと思ったんだけど、タイムリミットも近づいていて……」前置きをしてから、森下書房の置かれた現状を説明した。
「美鈴ちゃんも知っての通り、森下書房はお父さんが社長を務める出版社だ。私も共同創業者として、おもに営業の面で会社に貢献してきたつもりだ。でも、本づくりのほとんどは、お父さんが手掛けてきた。売れる本も、売れない本もあったけど、お父さんの企画力と本づくりにかける情熱がなければ、とっくの昔につぶれていたと思う。その状況は今も変わらない。肩書は社長だけど、ついこの間も企画書を出していたし、他の編集部員にアドバイスをしていた。実質、編集長の役割を担っていた」
「うん、それはなんとなくわかる。家でくつろいでいるときも、突然、『美鈴、いいアイデアを思いついたぞ!』といって、パソコンに向かっていたし」
「森下書房は創業から30年経った今も、名実ともに森下武の会社だったんだ。ところが、その大黒柱を失ってしまった。正直、編集部や営業部の連中も動揺している。『この会社はどうなってしまうんだろう』と」
「でも、編集をしているのは、パパだけじゃないんでしょ?」
「もちろん。編集部には5人の社員がいるし、ベストセラーになる本もつくってくれている。編集長の田之上さんもよくやってくれているよ」
「じゃあ、問題ないじゃない」
「ああ。もちろん、田之上編集長はじめ、みんなそれぞれいいところがあり、センスや能力もある。でも、それ以上にお父さんの存在は大きくて、みんな穴の大きさに呆ぼう然ぜんとし、自信を失っているんだ。それにもうひとつ問題があって……」
御園は、一瞬いいよどんでから、意を決したように再び口を開いた。
「実は、会社の資金繰りが行き詰まっていて、このままだと大変なことになるかもしれないんだ」
「し、資金繰りって?」
「簡単にいうと、会社を運営するお金が尽きてしまいそうなんだ」
「そうなると、どうなるの?」
「資金を借りている銀行にもお金を返せなくなるし、著者や印刷会社などに支払うお金も工面できなくなる。もちろん、社員の給料も払えない。あとは倒産するしかない」
「それは大変じゃない!」美鈴は大げさに驚いてみせたが、すぐにニコッと笑顔をつくった。
「でも、大丈夫でしょ。こういうときこそ、ミソじいの出番じゃないの。パパはいつも『会社の金のことは御園に任せてあるから安心だ』っていってたよ」
「たしかに、私が会社の財務と経理はずっと見てきたけど……」
「うちのパパ、お金の計算苦手だからさぁ。もしかして、資金繰りが悪くなったのも、パパが何も考えずに本をつくったから?もしそうだったら、ごめんなさい。父に代わって謝ります」そういって、美鈴はペコリと頭を垂れた。
「美鈴ちゃん、真剣に聞いてほしい」事態の深刻さが伝わっていないと判断したのか、御園はあらためて美鈴のほうに向き直り、じっと目を見た。
「はっきりいう。このままだと間違いなく森下書房はつぶれる。3カ月後、銀行からの借入金を払えなかったら、もう終わりだ。何度も銀行とは交渉してきたけど、もうこれ以上は持ち堪こたえられない」
「3カ月後、つぶれる……」