道は空いているものの、信号に何度も引っかかるのがもどかしい。片手でハンドルを握っているので、俺たちの車はあまりスピードが出せない。ばらばらに出動したので、一番早い捜査員はすでに秋葉原に着く頃かもしれない。
現在、午後一時五十分。まだ、何かが発生したという内容の通信はない。無線からは少し前、万世橋署員が秋葉原の歩行者天国に配備完了したという知らせが流れたが、秋葉原の方では特に異変はないらしい。
前方を注視して信号が変わるのを待ちながら、俺は助手席の海月に訊いた。「何か、考えがありますか?」
青梅街道から靖国通りに入るここまでの道中、海月は何かを考えているらしく、ほとんど喋らなかった。もしかしたら一言も口をきいていないかもしれない。
「いいえ。座っているだけです」海月は前を見たまま言った。
「……で、そのピーポくん人形、どこまで持ってくつもりですか」
「あっ」海月は膝の上にのせて撫でていたピーポくん人形を見た。「いえ、これは、別に。……すみません。手持ち無沙汰でして」
「いえ、謝ることではありませんが」
「その、どうしても捨てがたかったのです」海月はなぜか恥ずかしそうに、ピーポくん人形をぎゅっと抱きしめた。ピーポくん人形の方は、顔面にひびを入れたまま笑顔で締めつけられている。「ピーポくんの名前はパトカーのサイレンというだけではなくて、“PEOPLE”(市民)+“POLICE”(警察)の合成なのです。つまり、都民と警察の心の架け橋というわけでして」
「いや、ピーポくんの解説はいいんですが」
「このピーポくんを捨てるというのが、都民のみなさんとの心の架け橋を捨てるような気がしてしまいまして、つい」
「いや、そこをそんなに説明しなくていいです」すでにひびが入っているが。「……まさか、ただ単にぼけっとしていたわけじゃないですよね?」
海月は前方を見たまま言った。「……考えていました」
「何をです?」
「石田の心理です。どうしても、理解ができなかったのです」海月はいつものおっとりとした口調だったが、はっきりと言った。「七年前の事件が動機だとして、どうして秋葉原の歩行者天国で無差別殺人をしようとするのでしょうか」
「七年前の犯人が変態のオタクだったからですよ」信号が変わり、俺はアクセルを踏んだ。「オタクは全員、犯人の同類。オタクは皆、変態で犯罪者予備軍──現実に、そう考えている人間はたくさんいます。宮﨑事件の後だってそうだったらしいじゃないですか。オタクっていう人種は、しばしばそういう見方をされます」
「なぜ」
「理解不能だからですよ。誰だって理解不能なものは怖い。適当なレッテルを貼って遠ざけておきたいものです」
道路の凹凸で車が揺れ、考え込んでいる海月もわずかに跳ねた。
「石田は、オタクは皆、理解不能で憎い、と……?」海月はピーポくんのツノに顎をのせた。「オタクなら全員、殺してもいい、というのでしょうか」
「そこまでは分かりませんがね」再び信号につかまり、俺はつい舌打ちが漏れる。「殺人犯なんて、滅茶苦茶な考え方してる奴の方が多いんです」
海月はしばらくの間、黙って前を見ていた。石田の心理を理解しようとしているのかもしれない。厳しい表情のまま眼鏡を外し、ケースに入れてダッシュボードにしまった。
いきなり海月が、ぱっとこちらを向いた。「思いつきました」
「何をです」
「電話を貸してください。江藤君の携帯、知ってますよね?」言うなり、海月は俺のコートの内ポケットに手をつっこんできた。
「ちょ」携帯を抜き取られた。「何すんです」
「江藤君に訊いてみましょう」海月はすでに電話をかけている。「もしもし。江藤君ですね。海月です」
江藤君の大声が携帯から聞こえてくる。──姐さんっすか! 江藤蓮司っす!
「江藤君、一つ聞きたいのですが、アニメのイベントには詳しいですか?」
──はあ。自分、オタクなんで。最低限のことは。
「では訊きます。今日、アニメ関連のイベントは何かありませんか? それも……できれば『魔装天使クラン』という作品に関連するイベントがいいのです」
隣で聞いていた俺は、あっ、と思った。七年前、五十畑健太が愛好していたことが分かって批判を浴びた作品だ。今日、もしその作品に関連するイベントがあるとしたら? 単にオタクであるというだけでなく、五十畑健太のように、その作品のファンであることがはっきりしている人間がどこかに集まっているとしたら?
江藤君は興奮気味に応じた。──おおっ、姐さんクラニストっすか。
「それは何ですか?」
──『クラン』のファンのことっす。
略すな、分からんわい、とつっこみながら横で聞く俺の耳に、江藤君の言葉が飛び込んできた。
──姐さんも御存じってのは嬉しいっす。そうっす。今日は氷川玲奈の野音ライブっす。
「何?」海月より先に俺が訊いていた。携帯に向かって怒鳴る。「おい江藤、誰だそれは。天使なんとかと関係あるのか?」
──あ、今の声、兄貴っすか?
海月が顔の横に出してくれる携帯に怒鳴る。「そうだ。早く答えろ。誰だ今の、氷川……」
──氷川玲奈っすよ。『クラン』のミト役でブレイクした。声優歴は結構長くて……
「それはいい」俺は大声で遮った。「つまり、その作品の関係者なんだな?」
──ヒロイン役っす。いえ、公式設定ではヒロインはクランなんすけど、俺は断然ミト派なんで。
「お前の話はいい」俺はハンドルを回して右折待ちのトラックをやりすごし、携帯に怒鳴った。「野音ライブっつったな。野音って日比谷公園の野外音楽堂のことか? いつから始まる?」
──そうっすよ。確か午後二時からとかでしたから、もうすぐ始まると思うっす。バレンタインコンサートだから何かサプライズあるとか。うおー、行きてえ。
「落ち着け」
午後二時。とすると、開演まであと五分だ。
「日比谷公園の野外音楽堂……」海月は呟き、電話機に言った。「お客さんは、どのくらい来るものなのですか?」
──そりゃもう、今頃生粋のクラニストたちで超満員のはずっすよ。チケットすぐ完売で、俺、取れなかったすから。
海月が俺を見た。俺は無言で頷き、ハンドルを回して強引に右折した。体に加速度がかかり、タイヤが悲鳴をあげるのが聞こえる。
「警部、日比谷公園の野外音楽堂の収容人数は」
「立見を含めれば三千人を超えます」ドアに掴まりながら、海月が俺に言う。「何分で着けますか?」
「七分以内に!」
アクセルを踏み込んで前の軽自動車を追い抜いた。日比谷公園は皇居の南東側だ。急げばもっと早く着く。
鼓動が速くなるのを感じていた。息苦しさを感じ、奥歯を噛む。観客は三千人以上。しかも、ライブの客はお互いの肩がぶつかるほど密着している。サイロームの異臭を感じたとしても、まともに逃げることすらできない。
電話を切った海月は俺の内ポケットに携帯を挿し込むと、自分の携帯を出して電話をかけた。「越前刑事部長ですね? 海月です」
刑事部長に直接かけているらしい。俺は驚いて、海月が、いつものどん臭さが嘘のようなはきはきとした口調で緊急配備の要請をするのを、黙って聞いていた。海月と越前刑事部長のやりとりは速すぎて、俺は口を挟むことなど考えもしないほどだった。
本部庁舎にいる越前刑事部長は状況をすぐに理解したらしく、落ち着いた声で応答していた。──了解。本部と丸の内署で挟み撃ちにしよう。それ、犯人側は気付いているの?
「まだ、気付いていないはずです」海月は行く手を見渡すようにフロントガラスから外を窺う。「気付かれた場合、暴走した犯人がその場でサイロームを撒く危険があります。隠密で!」
──そうだね。じゃ、可能な限りの私服を集めて日比谷公園を封鎖、会場内に潜入させて犯人を捜すことにしよう。君も急行してね。
「はい」海月は答え、俺が「ろく」と口を動かしたのを見てとると、刑事部長に言った。「六分後に現着予定です」
──了解。私は西幸門前で指揮をとるから、こっち来てね。
それからの間、無線はずっと切迫した音声を流していた。秋葉原にいた西東京と糀谷の捜査員の半数が川萩係長を先頭に、日比谷公園に向けて引き返していること。本部庁舎内、及び丸の内署の私服捜査員が緊急出動し、日比谷公園の各門から公園内に潜入、不審者捜索をしながら野外音楽堂に向かい始めたこと。本部のN B Cテロ対応専門部隊と機動隊が出動準備を始めたこと。俺はそれらの音声を聞きながらできる限りの速度で車を走らせ、最短のコースをとって日比谷公園南西側の西幸門付近に車を停車させた。日比谷公園周辺の道路は道幅が広い上に見通しがよく、前方の車の中で、越前刑事部長が無線機に向かって指示を飛ばしているのがすぐ見つけられた。午後二時二分。
日比谷公園は桜田門の警視庁本部庁舎とは一ブロックしか離れていないし、反対側の丸の内署は交差点を挟んで向かい側にある。警察の動きは速く、すでに私服捜査員の数名が会場内に潜入し、「大きな荷物を持った人物」を目印に捜索を始めているようだった。俺は飛ぶようにして車を降り、前に停まっている越前刑事部長の車に近づいた。刑事部長も無線で指示を飛ばしながらドアを開けて車を降りたところだった。日曜のため周囲には通る車は少なく、野外音楽堂の方からは腹に響く低音と熱気に溢れた歓声が、そのままここまで届いてきている。
「刑事部長」
先に声をかけたのは、なぜかピーポくん人形を抱いたままの海月だった。刑事部長はこちらに近づくと小さく頷き、いつもと違った、抑えた声で言った。「ライブが始まってる。会場内の連絡に支障が出るから、バラードやってくれるといいんだけどなあ」
「状況は」海月は短く訊いた。
「会場内からはまだ不審者発見の連絡はない。すし詰めで動きにくい上、犯人が人ごみに紛れてしまえば発見は困難だ。かといって目立つ動きをして犯人に気付かれたら台無しだからね。時間がかかる」
「会場係は」
「各ゲートの受付に確認を取らせたよ。大きな荷物を持った客には見覚えがないそうだ。そもそもそういう客には声をかけるそうだからね」
報告しているところを見ると、なんだか海月の方が偉い人のようだ。越前刑事部長は彼女を見た。「どう思う?」
「空振りではないと思います」海月はすぐに答えた。「ただ、サイロームの性質を考えると……」
海月が言いかけたところで、無線機から悲鳴のような音声が聞こえてきた。〈噴水付近にて不審者発見。大型のボストンバッグを所持。引き留めています。指示を!〉
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