女王と対立した首相
2012年のロンドン五輪会期中、NHKのBSプレミアムで、イギリスBBC制作の『ロイヤル・スキャンダル~エリザベス女王の苦悩~』という連続ドラマが放映された。エリザベス女王の半生をフィクションも交えながら描いた、このシリーズの第3回では、1979年から1990年までイギリス首相を務めたマーガレット・サッチャーとの“確執”がとりあげられた。それによると、女王とサッチャーは、外交政策をめぐり一時対立したことがあったという(ちなみに女王は1926年4月生まれ、サッチャーは1925年10月生まれと、誕生日は半年しか違わない)。
その対立の背景には、両者の置く軸足の違いがあった。女王はイギリスの元首であるとともに、イギリスとその旧植民地から独立した諸国で構成されるイギリス連邦(コモンウェルス)の首長でもある。これに対しサッチャーは、冷戦下にあって共産主義勢力と対抗するべく、アメリカとの連携の強化をはかっていた。そんな彼女にとって、コモンウェルスとの連携はあまり興味を示せる問題ではなかったようだ(君塚直隆『女王陛下の外交戦略』)。
女王と首相の争点となったのは、1980年代半ば、いまだアパルトヘイト(人種隔離政策)の続く南アフリカだった。1961年から1994年までコモンウェルスを脱退していた同国ではこの当時、高揚する黒人たちの反アパルトヘイト闘争を抑えるべく、政府が弾圧を強めていた。そんな同国に対し、イギリスの制裁措置は生ぬるいのではないかと、コモンウェルスに加盟するアフリカ諸国から不満の声が噴出する。このことに女王は頭を悩ませ、たびたびサッチャーに何らかの措置がとれないものか働きかけていたという。
だが、サッチャーは制裁措置の効果を認めなかった。それどころか、制裁による南アフリカ経済の悪化を懸念した。その言い分は、経済が悪化すれば黒人の失業者が増加し、それにより黒人はますます白人雇用主に対して従属的になり、結果的に彼らの解放を遅らせてしまう、というものだった。
ドラマでは、南アフリカにおける黒人と警察との衝突の様子をテレビで見ながら、悲しむ女王に対し、テレビのコメディ番組を見ながら笑うサッチャーの姿が描かれていた。このあたりはさすがにフィクションだろうし、あきらかに制作側の悪意を感じる。が、これが現在のイギリス国民の女王観であり、そしてサッチャーの観方であると考えると、興味深くもある。
「ミルク・スナッチャー」から「鉄の女」へ
先述したように、サッチャーは外交政策において対米関係を重視し、当時のソ連を中心とする共産勢力に対抗した。サッチャーの代名詞ともいうべき「鉄の女」というニックネームも、もともとは保守党党首に就任した翌年の1976年、演説のなかでソ連の脅威を強調した彼女を、当のソ連軍の機関紙『赤い星』が非難の意をこめてそう呼んだものである。もっとも彼女はこれを気に入り、政権獲得にいたった1979年の総選挙の際には「ロシア人は私を『鉄の女』と呼びました。彼らは正しかったのです。イギリスはいま『鉄の女』を必要としているのです」と発言するなど、折に触れて用いている。
サッチャーに対しメディア、あるいは議会が与えたあだ名はこのほかにも枚挙にいとまがない。1970年、ヒース内閣の教育・科学担当相時代には、公立小学校でのミルクの無料配布を廃止、有料化したことから、教育界やマスコミの猛反発を受け、「ミルク・スナッチャー(強奪者)」をはじめ「氷の乙女」「開いた冷蔵庫」「サロメ」などありとあらゆるあだ名を奉られた。ただしこのときサッチャーは、政府内での教育予算の大幅カットの方針に対し、教育水準の低下は避けねばならないとこれを退けている。無料ミルクの廃止は、老朽校舎の改善費などどうしても必要な予算を確保するための苦肉の策であった。
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