「真琴は『自分たちは特別な人間ではない』と言っていた。
なのに『普通ではないこと』に巻き込まれてしまった」
志島理人(26)
「ねえ三週間ハネムーンのふりをして旅に出ようよ」
僕は大好きな歌の歌詞を、受話器の向こうの
「そんなことができたら、楽しいだろうね」
他愛もない軽口に、真琴はくすくすと笑い声を立てます。いつだって彼女は僕の冗談に、ひとつひとつ応えてくれました。五つ年上の彼女からすれば、僕はお調子者の弟のような存在だったでしょう。
受話器を持つ手が痺れていましたが、僕はベッドに横たわったまま、壁掛けの時計に目をやります。
「もうすぐだよ」
「うん、日付が変わるね」
「あーあ、こうやってまた一日が過ぎていくんだな。少しずつ僕らは歳を取る。なのにふたりは離ればなれ。なーんか、ずいぶん会っていないような気がする。前に会ったのはいつだったっけ
「先月の十六日だよ。金曜の夜から日曜の夜まで一緒に過ごしたじゃない。忘れたの?」
「忘れたー。マコがどんな顔だったか、忘れちゃったよ」
「私もマサの顔忘れちゃった」
「え、ウソ。ひでえ」
「マサが先に言ったからだよ」
真琴がけらけらと笑い声をあげて、わけもなくホッとします。僕はもう一度時計に目をやります。
「ちょっと待ってちょっと待って。新しい一日になるよ」
正確に刻み続ける秒針に急かされるように、がばっと起き上がりました。
「同時に言うんだよ、いい? はいっ、十、九、八、七、六、五、四、三、二、一……」
いったん言葉を区切ってから、受話器に唇を近づけると、必要以上に大きな声で喚き立てます。彼女も同時に声をあげました。
「真琴っ、三十一歳の誕生日、おめでとう!」
「
真琴は会社の先輩でした。のっぽで痩せっぽちな彼女は、それだけで目立つ存在。マカロンショートがとてもよく似合う小顔で、夏になると半袖のカットソーとスカートから覗く長い手足にドギマギしたものです。学生のときは、今で言うところの読者モデルをやっていたとか。だけど彼女はそちらの業界に進まず、地道に就職活動をして、大手電子機器メーカーに就職しました。
僕も新入社員から数年は、真琴の後ろについて、営業に回りました。覚えの悪い僕は、教育係の彼女からよく説教を喰らったものです。身長差があるため、仁王立ちする真琴の小言を文字通り、上から目線で頂戴する毎日でした。あの頃の彼女はおっかなかった。だけど好きな男とふたりきりになると、とびきり甘えん坊に変わるなんて、想像できませんでした。
「志島くんあんたさ、何さっきの得意先への受け答え。頭を下げるだけじゃなくて、しっかり膝も曲げてお辞儀しなよ。『SONYの女神』と言われた私に恥掻かせんなって。営業ナメてんの? 日経も読んでないし、若いくせに看板で仕事しようなんて百年早い。
うちもこのところ目立った商品が出てないし、バブルが弾けてからMDの売り上げも落ちている。あんただけじゃなく、オフィス中のみんながうちのブランドイメージに甘えきっているけど、気がついたら他社に追い抜かれて広告も打てなくなって、また数字が落ちてって、負のスパイラルに陥っちゃうんだからね」
「すんません! あの、頑張ります、ハイ、ハイ」
「『ハイ』は一回!」
叱られてばかりでしたが、僕はこの頃から真琴のことが嫌いじゃなかった。自分でも気づかないうちに、彼女の一本気な凜々しさに魅かれていました。
あるとき、ちょっとした偶然がふたりをぐっと引き寄せました。
その日は、池袋の駅前に新しく設置される大型ビジョンの受注が決まる日でした。出社するなり真琴は不機嫌モードというか、むくれた様子でした。
「志島くん、星座なに?」
「何でですか」
「本当は口にしたくもないんだけど、きょう家を出る前に、テレビの、毎朝やってるでしょう、占い。あれでワーストって出たの。最悪。見なきゃよかった」
「ハハハ。僕はそういう類い信じていないんです」
「信じろよ。直感とか第六感とか、そういうの大事だよ。一応訊いてあげる。何座?」
「一応言っとくと、しし座です」
「うっそ。七月生まれ?」
「はい。井山さんもですか?」
「うわ信じらんない。あんたと一緒? マジで? キモいんですけど」
「どういうことスか」
「いい。もういいから。黙ってて。この話終わり」
「七月二十六日です。ユン・ピョウと同じ誕生日」
真琴の表情が固まります。一拍置いてからこれ見よがしの溜め息をつきました。
「きょうはもうダメだー。占いはワーストだって言うし、誕生日はあんたと一緒だってわかるし。人生最悪の日」
「いくら何でもそれは失礼かと」
真琴はがっくりと肩を落とします。いつものことでしたが、わかりやすい人でした。
「そっかー、嬉しいなあ。僕は井山先輩と同じ星の下に生まれたんだ。あー幸せ幸せ。人生最高の一日だなあ」
「言うことがいちいち、ウソ臭いんだよ」
真琴がファイルで僕の頭を叩きます。でもちっとも痛くなかった。きっと僕はニヤニヤしていたと思います。だから彼女はもう一発、今度は頬を引っ叩いてきました。
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