「ただいま」
二泊三日の旅程を終えて、ようやく自宅の玄関に入る。子供たちが独立して、一軒家の自宅は亜希子と夫の二人暮らしだ。夫はいるはずだが、ただいま、の声に返事もない。怒っているのだろうか。昼前の電車に乗って帰ってくるはずだったのに、痴漢騒ぎのせいで、もう夕方だ。夏も終わりに差し掛かって、日が傾くのも少しずつ早くなっている。
「なに、これ」
リビングに入るなり、亜希子は手に持っていた荷物を取り落とし、絶句した。テーブルには、ビールの空き缶にコンビニ弁当のカラ、スナック菓子の袋といったゴミが散乱していて、ソファには寝間着が脱ぎ捨てられている。キッチンに入ると、惨状はさらに極まっていた。シンクには汚れたままのボウルや皿がごちゃごちゃと積まれていて、そこかしこが粉塗(こなまみ)れになっている。
「おう、なんだ、帰ってきてたのか」
ポロシャツに短パンというラフな姿の夫が、「暑い暑い」とぼやきながら、リビングに入ってきた。炎天下にもかかわらず、ずっと庭仕事をしていたらしい。汗染みのついた格好のまま、どかり、とソファに腰を下ろす。ソファカバーを洗濯するのは、誰だと思っているのだろう。
「あの、食べ終わったものは、捨てておいてくださいね」
亜希子がリビングのゴミを集めながら呟くと、夫は不機嫌そうに鼻を鳴らし、忘れていただけだ、とぶっきらぼうに返事をした。
「昨晩は、何を食べたの?」
「昨日?」
「キッチン、使ったんでしょう?」
「ああ、まあな。たまにはな」
夫は、得意げな笑みを浮かべると、なんだと思う? と、どうでもいい質問をしてきた。食べたものに興味があるのではない。何を作ったらこんなにキッチンを汚せるのか、ということを問い詰めたいだけだ。
「さあ、お粉を使ったみたいだけど」
「ピッツァだ。ピッツァ」
「ピザ?」
「ピザじゃない。ピッツァ。生地から手作りのな」
なるほど、と、亜希子は頷いた。粉塗れの元凶は、ピザ生地を作るときの打ち粉のようだ。作ったら後片付けを、と言おうとしたが、イライラのあまり唇が震えた。深呼吸をして、必死に心を落ちつける。
「珍しいわね」
「ま、ようやく余裕ができたからな。今までは時間がなくてお前任せだったけど、俺も料理くらいできるんだ」
七歳年上の夫は、今年の三月末日で勤めていた会社を退職した。六十まで働けるはずだったが、五十七歳で早期退職することを決めたのだ。家族への相談もなく、亜希子にしてみれば寝耳に水だった。長男が大学を卒業して、ようやく母親業から解放されたと思ったのに、息抜きをする間もなく毎日夫が家にいる生活が始まった。
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