証言・矢島博美
もともと私は一九九五年にあった大洋航空機事故について書くつもりはなどなかった。しかし私が信用している二、三人の同業者が事故について調べていくうち、病死か事故死したり、あるいは行方不明になったりと相次いだため、俄然興味が沸いた。
月並みな言い方になるが、ノンフィクション・ライターとしての血が騒いだわけである。
旧知の関係者から、手を引いた方が賢明ではないかと進言された。まるで口裏を合わせたように、彼らは同じことを口にした。
「事故からおよそ二十年が経過しているにもかかわらず、まともなドキュメンタリーやノンフィクションが一本も発表されていない。インターネットでは様々な憶測に満ちた検証記事を時折見かけるが、しばらく経つと削除されている。
あの事故の背後には底の知れない闇が隠されている。その証拠に、きみより先に調べていたライターは、ひとり残らず姿が消えてしまったではないか。
悪いことは言わない。命が惜しかったら早々に手を引いたほうがいい」
だいたいこんなところだろうか。事故は風化するどころか、謎を深めていると言っていいだろう。
確かに、東京発沖縄行きの大洋航空461便と大阪発東京行き420便が空中衝突し、両機の乗客乗員計六七二人が死亡という、航空機史上最悪の事故について取材すべきことは多かった。
旧運輸省を中心とした政府の事故調査委員会は事故の原因を「機長の操縦ミス」と結論付けたが、本当にその通りだったのか。事故機の二機ともコックピット内のブラックボックスが見つからない想定外の事態が発生し、また「事故原因の究明につながる機体の破片もほとんど見つからなかった」とする事故調の報告は到底信じられなった。いきおい陰謀や謀略説が多数流れた。
それでも二〇〇七年頃から六人の生存者も含めて、事故の当事者たちに話を聞き始め、彼らの話に耳を傾けていくうち、わかったことがある。
大洋航空機事故は、ただの旅客機事故ではない。日本という国の本質や中身や裏側——つまりすべてを孕んでいる。
誤解を招かないよう断っておくが、私は世間によくある陰謀論者ではない。むしろ常に醒めているリアリストだと自己分析しているが、何人かの証言には、人生でも指折りの興奮を覚えたことを白状しておく。
「どうしてノンフィクション・ライターになったのですか」と訊かれるたび、「人間の正体を知るため」と答えてきたが、この事故を調査するうち、錯覚や思い違いではなく、私はその一端を垣間見ることができたものと思う。
事故の当事者と関係者を探すだけでもひと苦労を強いられ、ようやくインタビューの許可が下りたと思ったら、どこからか横槍が入ったのか、当日の待ち合わせ場所に取材対象者が現れなかったことも多々あった。
私の携帯電話に迷惑電話がかかってきたり、自宅宛てに脅迫状が届いたのも一度や二度ではない。その度警察に通報したが、彼らは何ひとつ対策を講じてはくれなかったことをここに記しておく。
真相に一歩近づいたと思うたび、振り出しに戻っていたことも数えきれない。各々の証言者が自分にとって都合のいい「真実」を話すからである。事実はひとつだが、真実は人の数だけ存在することを今更ながら実感した。
黒澤明監督の名作、『羅生門』の登場人物は多襄丸、金沢武弘、真砂の三人だが、現実の社会はもちろん彼らだけではない。このことに私はずいぶんと苦しめられた。それはこの先、読者にもわかって頂けるものと思う。
なお、証言はすべて二〇〇七年から一五年の取材によるものである。人によっては何度も会い、話をまとめた。掲載順序は時系列ではない。証言者の年齢は事故当時のものとする。読者に証言者の意図を理解してもらうため、証言を整理して構成したことを明記しておく。また、取材対象者に迷惑が及ばぬよう、一部は仮名に、年齢も変えてある。事故とは無関係に見える証言も含まれているが、無秩序に思えるピースが後になってぴったりと当て嵌まることもあるため、あえて掲載した。
取材開始時は、ここまで長大なレポートになるとは想定していなかった。ページ順に読み進めたところで、迷子になったような感覚を覚える方もいると思うので、どこから読み進めて頂いても構わない。願わくはエピローグで再び会えることを祈ってやまない。
「あなたはいま、底なし沼に足を踏み入れようといているのですよ」
仁徳繁夫(60)の証言
しかしですね、よく私の世代なんかは「激動の昭和」などと言ったりしますが、それは太平洋戦争があったから言えるのであって、歴史になるほど歳月が経過していないため、大局的に見ることができずにいますが、実は平成のほうが凄絶だったのではないか。そう思うときがあります。
日本は一九八〇年代後半から九〇年代初頭にかけての所謂バブル期と比べると、今では別の国になってしまった。国民は真面目に働いているのに、ここまで生活基盤や経済が悪化するとは想像もできなかった。
友人の旧通産省のキャリア官僚や経済評論家と話をするたび、彼らと意見が一致するのは、「一九九五年がターニング・ポイントだった」ということです。バブルが弾けたのは九一年頃ですが、実際はそれから四年後に転機を迎えていた。
一九九五年は一月にマグニチュード7.3の阪神・淡路大震災があり、六千四百人余りの人たちが亡くなった。三月にはオウム真理教による地下鉄サリン事件。日本の歴史上、最大とも言える大規模なテロに国民が震撼した。そして夏は大洋航空機事故がさらなる追い打ちをかけた。
おかげで戦後五十年を振り返るという厳かな気持ちはどこかに霧散してしまった。
この三つの事件・事故だけではない。九五年というのは本当にいろいろあった年なんです。埼玉県の愛犬家連続殺人事件、國松孝次警察庁長官狙撃事件、八王子のスーパー強盗殺人事件、東京外国為替市場で一ドル七十九円七十五銭の円高値を記録、高速増殖原型炉「もんじゅ」のナトリウム漏洩事故……。
良かった出来事は野茂英雄がアメリカ・メジャーリーグで勝ち星をあげたことです。日本人ピッチャーが大リーグで勝つなど、マンガでもあり得ないようなことが起こった。野茂が先陣を切ってからというもの、ゴジラ松井、イチローなど、日本人選手が続々とメジャーに進出するようになったため、「野球は巨人」という上位概念が崩壊した。ゴールデンタイムで読売ジャイアンツの試合が放送されないなど、むかしの人たちは信じられるでしょうか。
一九九五年、それは「日本」というフォルムが溶け出した年。これまでとはまったく違う時代がやってくると、人々は皮膚感覚で察知していたのではないでしょうか。
メディアはよく「失われた二十年」という言葉を使いたがるが、私は違うと思う。後から振り返れば、日本は永遠に失われていたのだとわかるはず。大洋航空機衝突事故には、そうした日本の失墜の理由と病巣が集約されている。
ひとつだけ忠告を差し上げておく。
あなたはいま、底なし沼に足を踏み入れようとしているのですよ。
現実はミステリー小説のようにカタルシスを得られるラストが待っているわけではない。ページを閉じれば安全な場所が確保されているわけではない。ひとところに回収できるような、単純な事故や事件の類いではありません。犯人探しをしたところで見つかる保証もない。
これから大勢の人々の話に耳を傾けて、真実の中にひとつ嘘が入っていたり、嘘の中に真実が入っていたりと、辻褄が合わない、整合性もない、混沌と置き去りの謎と、次から次へと目の前を黒い霧が覆うでしょう。決して無傷では済まないはず。
今なら引き返せますよ。よろしいですか。