12
五十畑浩二失踪の報を受け、糀谷公園女子大学院生殺害事件特捜本部は騒然となった。
二月十二日日曜日の午前十時十四分、大阪に住む五十畑浩二の両親から、同居している息子が帰ってこない、という届け出が地元交番にあった。両親によると、五十畑浩二は三日前の二月九日、黙って家を出たきり戻らず、携帯もつながらないままなのだという。届け出を受けた地元の駐在員が五十畑宅に急行した。五十畑浩二は自分で家を出たとのことだったが、車はガレージに残ったままであり、両親にも行き先に全く心当たりがない、ということだった。
急行した駐在員から府警本部に連絡がされた。十二日午前十一時十六分、大阪府警はかねてより協力を頼まれていた警視庁の越前刑事部長に連絡、特捜本部に五十畑浩二失踪の疑い、という急報がもたらされたのは十分後の十一時二十六分だった。特捜本部はすぐに大阪への捜査員の派遣を決め、本庁の二名と、前回五十畑宅へ聞き込みに行った所轄の二名が新大阪駅行きの新幹線に飛び乗った。
それと同時に本庁より高宮・中島津の両巡査が五十畑浩二の次男、幸生が住む中野区のアパートへ急行していた。五十畑幸生の携帯にはすでに何度か電話がかけられていたが、未だつながってはいなかった。
五十畑幸生宅の様子がおかしいことは、急行した高宮たちにはすぐに分かった。留守のようだったが、ドアポケットには三日分の新聞が詰め込まれており、チラシも溜まっていたため、少なくとも五十畑幸生は二日以上、部屋に戻っていないと思われた。他の捜査員が幸生の通っていた大学に連絡をとっているが、そちらからの情報はまだ入ってこない。高校などと違い、大学生は二、三日学校に出てこなくても不審には思われない。
不動産会社からやってきた管理人が、よろしいですか、と高宮たちに確かめ、マスターキーを出す。高宮は鼓動が速くなるのをこらえながら頷いた。傍らの中島津もドアを睨み、おそらくは中の状態を様々に想像している。
管理人には鍵だけを開けてもらい、高宮と中島津は手袋をつけてノブを捻った。場合によってはドアノブの指紋が必要になるかもしれないのだ。
二月という季節からすれば当然のことだったが、特に臭気はしなかった。高宮は中に声をかけてから靴を脱ぎ、目立つ場所に足跡をつけないよう壁際から廊下に上がった。玄関の靴を確認し、中島津を見る。中島津も頷いた。玄関には靴が綺麗に揃っている。
だが、部屋の中央に横たわっているものを見て、高宮と中島津は同時に目を閉じた。
五十畑幸生だった。外傷は見当たらず、着衣の乱れもないが、死んでいることは明らかだった。頭を玄関側に向けて、仰向けに、眠るように目を閉じて倒れていた。
死体の脇に膝をつき、コンマ数秒だけ手を合わせると、高宮と中島津は素早く状況を確認した。死体は綺麗なもので、傷どころか索痕一つなかった。季節のせいもあり、腐敗も始まっていない。死後二十四時間以上は経っているが、一週間以上前に死んだというわけではないようだ。
部屋には争った跡も物色した跡もなかった。だがカーペットには死体を短い距離、動かした痕跡があった。五十畑幸生はこの部屋で死に、犯人の手でこの位置に横たえられた、ということだろう。安らかに目を閉じた表情からして、犯人が死後に顔を整えた可能性もある。
「こいつは……」
二人の視線がぶつかる。二人ともその一瞬で、相手が同じ可能性を考えていることを悟った。
「五十畑幸生が最後に目撃されたのは何日前だ?」
「はっきりしません。ですが、少なくとも二日前には、もう……」
「となると……」
中島津は頷き、無線機を出して本部に報告を始める。最悪の事態だった。
カーペットを見ていた高宮は一つ、妙なものに気付いた。よく観察してみるまで気付かなかったが、毛の間に細かい茶色の粒が散らばっている。
摘み上げてみると、それは明らかに土の粒だった。
「土だと……?」
玄関方向を振り返る。誰かが泥靴で侵入した、という可能性がまず頭に浮かんだが、玄関の中にも外にも、足跡らしきものはなかった。ここしばらくは雨が降っていないし、そもそも泥がつくような場所はこの地域にはまずない。それにこの泥は。
「植木鉢か何かか……」
呟きながら指先の土を観察する。どこかから落ちた泥、というよりは、その方が近い気がした。だがそうだとするなら、その「植木鉢か何か」はどこだ? 室内には土のついた物など置いていない。犯人が持ち去った? 何のために?
高宮は立ち上がり、壁の収納を開けてみた。
かすかに、甘い香りがした気がした。一瞬だが、花の香りのような。
高宮は死体を振り返った。外傷が全くない死体。死因は何だろう。一見したところ中毒死、それも一酸化炭素中毒の死体に最も雰囲気が似ているが……。
「死者」「土」「甘い香り」。
高宮の中で、それらのキーワードがぽつりと発光して残った。……そして、一酸化炭素中毒のように見える綺麗な死体。
高宮は携帯を出し、六係長の古森に電話をかけた。「古森さん。五十畑幸生宅、高宮です」
──おう。今、中島津から報告を受けた。鑑識がもうそっちに向かったはずだ。やられたな。
古森は落ち着いた声でそう言ったが、二人のつきあいは長い。かけてきた高宮の声の微妙な調子から、古森も何かを察したらしかった。
──どうした。何か気付いたのか?
「カーペットの毛の間に土が落ちています。乾いた泥というより、植木鉢の中にあるような感じの。それと収納を開けたら、一瞬ですが、かすかに甘い匂いがしました」
高宮はあえて事実のみを言い、古森の判断を聞こうと考えた。「……どう見ますか?」
沈黙が一、二秒だけあり、電話機から古森の声がした。
──西東京の特捜本部が、闇サイトの管理人からサイロームを強奪した奴を追っている。
「あの事件たしか、サイローム盗られた方の奴は昨夜挙がったんですよね? ラリってて捜査員に襲いかかったとか」
──ああ。なんでもヤクの支払いが滞ってて、それでサイロームを売って金を作ろうとしてたとかいう話だ。捜査員に襲いかかったのはヤクザの追手と勘違いしたからで、今は調べに応じているそうだが……。
電話の向こうで古森が腰を据えたらしく、どかりという音が高宮の耳に届いた。古森が続ける。
──だが、どうもそいつが妙なことを言っているらしい。訪ねてきた客にナイフで脅され、サイロームを奪われたとかなんとか……。家宅捜索でもサイロームは出なかったらしくてな。西東京はまだ行方を追ってる。
「だとすると……」高宮は立ち上がった。無線で報告をしている中島津が高宮を見る。
電話の向こうで数秒、何かのやりとりをするような声が続き、それから古森の声に戻った。
──今確認した。サイロームを使えば現場に土が残る。甘い匂いもだ。気を付けろ。まだどこかに残留しているかもしれん。
「了解です。確認は鑑識に頼みます」
──西東京の捜査員が糀谷の特捜本部とそっちの現場に、同時に向かったらしい。着いたら説明して、西東京の状況も聞いてほしいが……。
古森は言葉を切り、一瞬だけ考えたようだった。
──一刻を争う事態かもしれん。高宮。鑑識と西東京の捜査員への説明は中島津に任せて、お前は一足先に西東京のチョウバに行って、直接詳しい話を聞いてきてくれ。
「了解」
高宮が電話を切ると、横で無線のやりとりをしていた中島津が頷きかけてきた。「話は聞こえた。ここは任せろ」
「お願いします」
高宮は大股で部屋を出ると、困ったような顔で玄関の外に立っていた管理人にもう少しそこにいてくれとだけ頼み、アパートの廊下を駆け出した。路上駐車していた車に乗り込むと、カーナビを操作して西東京署を表示させ、同時に携帯で西東京の特捜本部に電話をかける。
西東京の事件の方はこちらも知っていた。最初は連続放火事件とみられていたが、一週間くらい前、現場から青酸ガスを封入した農薬──サイロームが出て大騒ぎになっていた。一時は糀谷公園の事件よりも大きい騒ぎになったほどだ。まだマスコミには流れていないが、昨夜、サイロームを持ち出した犯人を捜査員が逮捕した、と聞いていたが……。
サイロームは出なかったという。中町小学校の敷地からサイロームを掘り出した児島という男は、客を装って会いにきた男に、掘り出したサイロームを丸ごと強奪されたらしい。供述によると、それが四日前。
ハンドルを操りながら、高宮は計算する。鑑識の結果待ちだとはいえ、間違いなく五十畑幸生を殺した凶器はサイロームだ。母親はかなり前に病死しているというし、父親の浩二についても、大阪府警からさっき、「誰かに呼び出されて出ていったきり消息不明らしい」という話が入った。もしすでに殺されているとすれば、これであの家は全滅だ。動機は間違いなく、七年前の西青梅少女殺害事件。やったのは俺たちが訪ねた、被害者遺族の……。
無線が入った。〈石田宅に捜査員が急行中。母親の石田由美子は電話にて所在確認。長男の石田楽人、父親の弘樹、ともに連絡が取れません〉
高宮はハンドルをきつく握りしめた。なぜ、こんなことを。犯人は今、どこにいる? サイロームはどこにあるのだろう。奴はまだ何かをするつもりなのだろうか?
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。