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世田谷のややこしい道を海月に運転させていたら着く頃には桜が咲いていそうなので、児島優介のアパートまでは、俺が右手一本で運転した。江藤君は西東京署に残した。電話を受けた麻生さんが来たら、彼女に事情を説明するように、とだけ言い、玄関で待たせている。場合によっては警視総監賞クラスのお手柄かもしれない。そうなれば彼の将来は間違いなく警察官だが、それがいいことなのかどうかは分からない。
「多少、強引でも構いません。必要があれば部屋の中に入りましょう」俺は右手だけでハンドルを回しながら、海月に言った。
「違法に、なりませんか」
「なるでしょうが、それで怒られるのは俺たちだけです」アクセルを踏む。「本部の捜査員ではそこまではできない。でも、今はそれをやる必要があります。誰がやるか、と言われたら、実績のある俺たちしかいないでしょう」
「まだ、実績というほどのことは」
「ヘマの実績、ですよ。今更一つぐらい増えたってたいして変わりゃしない」
「ああ……」
そんなに落ち込まないでほしい。こちらまでいろいろ思い出してしまうではないか。
だが海月は俺を見ると、なぜかほっとしたように微笑んだ。
「設楽さんは、だんだん遊軍捜査官らしく、なってきました」
「戦力外らしくなってきたんだと思いますけどね」
児島優介の住むアパートは車がすれ違えないような路地の奥にあり、俺たちの車は一旦アパートの前を通りすぎて大通りに出なければならなかった。近辺のコインパーキングに車を入れ、反対方向に歩き出そうとする海月を引っぱって暗い路地を歩く。すでに午後十時を回っており、路地は静かで人通りがない。訪問には非常識な時間帯だが、かえって不意打ちになるかもしれない。間違いだったら後できちんと謝罪する。そう決めてかかるしかない。路地には乾いた風が吹き抜け、ダッフルコートで全身をガードする海月はともかく、左腕を袖に通せないためコートの前を開けざるを得ない俺には寒かった。
建物の横、自転車置場の街路灯の下で部屋番号を確かめる。四○一号室。明かりはついている。四階建ての鉄筋で、レンガを模した外装の小綺麗なアパートだが、オートロックでないのがありがたかった。気がはやっているのか、海月が迷わず階段を上りだしたので、俺も続いて上がる。
四○一号室には表札は出ていなかったが、小豆色のドアの脇には小窓があり、そこからの光で住人の在宅は分かった。チャイムを鳴らすと、奥から近づいてくる足音がくぐもって聞こえた。俺はドアに向かって名乗った。「夜分すみません。警察の者ですが、児島優介さんにちょっとお話を伺えないでしょうか」
反応はなかった。インターフォンのマイクは沈黙したままだ。しかし、ドア越しに人の気配は伝わってくる。俺はもう一度名乗った。「夜分すみません。警察の者です。少しでいいので、お話を伺えないでしょうか」
やはり反応はなかった。普通、しつこく名乗ればドアを開けないまでも、何らかの返答はあるのだが。
そのまま、じっと待つ。中からの物音はしない。海月と一度頷きあい、また待つ。
妙だな、と思った。中に人がいるのは確かなのだが、反応はなく、なんとなく、ドア越しの気配も消えたようだ。居留守を使うつもりだろうか?
が、次の瞬間、家の明かりがふっ、と消えた。
「……あれ?」
俺はいぶかしく思った。なぜ今になって明かりを消すのだろう。最初明かりがついていたことはすでに見られている。居留守ならそのまま待てばいいはずなのだが。
「寝てしまったのでしょうか?」
「まさか」
海月と囁きあい、ドアを叩く。「児島さん、いらっしゃいますよね? どうしました?」
やはり反応はなかった。俺は魚眼レンズの視野を避け、ドアに耳をつけてみた。冷たい感触とともに、中の様子が振動となって伝わる。誰かが廊下を移動する、低い足音がする……。
おかしい。中にいて移動しているなら、なぜ明かりを消して真っ暗にしている?
「設楽さん」海月が俺の袖を引き、囁いた。「様子が変です」
「そのようで」俺も囁き返した。
児島のところにはすでに一度、捜査員が訪ねている。児島が「ジョーカー」で、犯人だとするならば、マークされていることにはすでに気付いているはずだ。そこにまた、俺たちが訪ねた。場合によっては、児島は相当、切迫した状況になっているだろう。
待ってみたが、反応はなかった。
このアパートの出入り口は玄関のこのドアと、反対側の窓しかない。だが反対側の窓の下には何もとっかかりがなく、脱出が不可能であることは確認済みだ。仮にワイヤロープのようなものを使ったとしても、下りる途中で下から目撃されてしまう。
児島が犯人だというなら、この部屋にはサイロームもあるはずだった。児島は警察に本格的にマークされたと気付いて焦り、今、サイロームを処理しようとしているのではないか。その疑念が頭をよぎる。だが、それも無理なはずだった。あの大きさの缶を、あの量を、この部屋のどこかに隠す方法はないし、窓から捨てることも不可能だ。トイレに流すのも困難だろうし、水音は今のところしていない。
なら、児島は中で何をやっている?
俺は試しに、ゆっくりドアノブを回してみた。ノブは簡単に回った。鍵が開いているのだ。この時間なのに施錠をしていなかったのだろうか?
やはり、異常な状況であることは確かだった。俺はどうすべきかを考えた。中にいるのは児島だろうが、そうでない誰かかもしれない。そして様子がおかしい。児島はすでにマークされていることに気付いているだろうから、ここで俺たちが帰ってしまったら、すぐにこの部屋を出て、二度と戻ってこないかもしれない。一方、ここでぐずぐず時間をかけていてもまずい。児島がサイロームの処分を始めるかもしれないし、もっと悪い可能性も考えられる。
俺は一つ深呼吸をし、ドアの脇に体をつけた。海月に囁く。「ドアを開けてください。充分に開けたら、俺に続いて入ってきてください」
海月は緊張した表情になったが、ドアに手を伸ばし、ゆっくりとノブを捻り、開けた。
小豆色のドアが音もなく動く。隙間が広がり、室内の暗い空間が徐々に姿を現してくる。児島が飛び出してこないのを確かめ、俺はドアから玄関に入った。
典型的なワンルームだった。中の空気は生暖かく、倉庫の中のような、こもった臭いがする。だがそれに混じって、妙に甘ったるいような、妙な臭気もあった。アロマだの芳香剤だのといった綺麗な感じのしない、吸っていると酔いそうな臭い。
……ヤクをやっているのか?
俺は音をたてないよう身を乗り出して中を窺った。入ってすぐ右側にはシンクがあり、シンクの中には同じ銘柄のカップラーメンの容器がいくつか重ねられていた。左側は壁で、その向こうに洗濯機のパイプの一部が見える。壁に隠れて見えないが、こちら側が洗面所とバス、トイレなのだろう。リノリウムの床の四、五メートル先には居室の戸があるが、開いている。明かりは一つもついておらず、カーテンも閉まっているため、外廊下からの光だけでは、部屋の中の様子は分からない。
だが、人の気配はある。物音一つしないということは、息をひそめているということだ。
「児島さん、どうしました? 入りますよ」
そう言い、右手をいっぱいに伸ばして電灯のスイッチをつける。蛍光灯の白い光が無機質にキッチンを照らし、奥の部屋にも陰影を浮かび上がらせた。動くものの姿はない。
まさか、死んでいるのか?
捜査員の訪問で思い詰めた容疑者がいきなり自殺してしまうことはある。警察がそのパターンで痛い目に遭うこともある。
俺は靴のまま、玄関に一歩上がった。ごつ、という足音が鳴った。
人の気配はある。奥の部屋と横の洗面所、どちらかに児島はいるはずだ。
「『ジョーカー』だな?」
抑えめの声でそう呼びかけたが、暗い部屋からは返答がない。
「これから上がらせてもらうが、馬鹿なことは考えるなよ」
後ろで海月がドアを閉め、鍵とチェーンをかけた。これで、児島が俺たちを突き飛ばして逃げ出そうとしても、すぐには出ていけない。
海月に囁く。「警部、行きますよ。……靴は脱がないでいいです」
荒事は避けたかった。なんせ相棒がこれなのだ。
実のところ、ひそかに後悔していた。俺は怪我人で半人前、海月に至っては半人前どころか、下手をしたらマイナス〇・二人前くらいかもしれない。こんな展開は予想していなかったが、こうなるなら、麻生さんにでも一緒に来てもらえばよかった。
だが、もう後戻りはできない。
向かって右手、キッチンのシンクに背をつけ、ゆっくりと進んだ。甘い臭いが一層強く感じられ、酔いそうだった。奥の居室のドアが開いているのは罠で、児島は洗面所から飛び出してくるかもしれない。左側の洗面所からは間合いを取りたかった。
すり足で、ゆっくり進む。洗面所とその奥のバス、トイレのドアが視界に入るが、どちらも閉まっている。奥の居室の明かりを先につけるべきだ。そう判断して、身構えたまま戸に向かって進んだ。
ばちん、という音がして、突如視界が真っ暗になった。洗面所の方でドアが開く気配がして、俺はとっさに一歩、居室の方に動き、いた場所を振り返った。何かが飛び出てくる音がし、海月の悲鳴とシンクに大きなものがぶち当たる音がした。一瞬、青白い何かが光った。
「警部っ」
暗闇で何も見えない。だが何か大きなものが床に倒れる音がし、正面の闇の中に動く気配があった。反射的に後退し、居室の中に飛び込む。床のフローリングの感触がし、脛に何かが当たって転びそうになるが、周囲は真っ暗で、何がどれだけ置いてあるのか全く見えない。
「警部」
呼んだが返事はなく、代わりに、正面にある人の気配が近づいてきた。
「児島、動くな! 発砲するぞ!」
とっさに足を踏ん張り、そう叫んでいた。手錠と警棒は携帯しているが、拳銃は持ってきていない。はったりだった。
人の動く音がやんだ。正面の闇の中から、ふしゅーっ、ふしゅーっ、という音が聞こえてくる。甘ったるく発酵したような、粘りつく臭いが鼻から喉に充満し、俺は吐き気を覚えた。
……野郎、ブレーカーの方を落としやがった。
認識が甘かった。児島は洗面所に潜み、こちらがドアを閉めたところでブレーカーを落として暗闇にするつもりだったのだ。一瞬、火花が見えたから、今の武器はスタンガンか何かだろう。海月は死んではいないはずだ。
ふしゅーっ、ふしゅーっ、という、ガス漏れのような音はまだ続いていた。ほんの三、四メートル前、居室のドアのあたりから聞こえてくる。人の呼吸音のようだ。
「児島!」先に動かなくてはならなかった。周囲に目を凝らしながら怒鳴る。「馬鹿なことは考えるな。今ならまだ非現住建造物放火と、殺人予備で済む。態度次第じゃ執行猶予がつくぞ。お前は刑務所に行かなくて済むんだ!」
暗闇から反応は返ってこなかった。ふしゅーっ、ふしゅーっ、という音だけが続いている。
くそったれ、と、心の中で舌打ちする。こんな状況は想定外だ。
重い足音がし、気配が接近してきた。こちらが銃を持っていないと判断したのだろう。俺は右手一本で構えた。気配からおよその間合いを測り、踏み込んで思いきり蹴る。
手応えはあったが、足から伝わってきたのは妙に硬い、金属的な感触だった。蹴ったものが予想外に重く、バランスが崩れる。相手はよろめいただけで、俺は反射的に危険を感じて後ろに跳びすさった。暗闇の中で、鼻の先数センチのところを何かが吹き抜けた音がする。
居室の壁に背をぶつけ、右手を伸ばして後ろ手でカーテンを掴み、思いきり開け放す。外の光が部屋の中をかすかに照らし、灰色の濃淡で視界が蘇った。
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