自分のなかの音楽を聞く
高橋源一郎(以下、高橋) それまでにいくつか試行錯誤して、とにかく小説を書こうとしていたんですが、このときになると、自分のなかにある種の音楽みたいなものが生まれて、書いているというか、その音に耳を傾けている状態になっていたんです。それに気づいたとき、「あ、物を書くっていうのは、こういう状態のことを言うのか」と初めてわかりました。
ここからは毎日が本当に幸せで、「次の日には何が出てくるんだろう」というような日々を過ごして。『さようなら、ギャングたち』は第三部まであるんですけど、第二部まではすごかった。第三部になったら、音が聞こえなくなっちゃった。ガス欠して、そこからちょっときつかった。
特に最初の第一部と第二部は、毎日、朝起きると、もう音が聞こえてくる。書き写しているだけ。それで寝る前に、「もう次の部分はこうかな」となって寝て、起きてまた書く。自分でも不思議な感覚でした。小説を書いているんじゃなくて、自分のなかにある音楽を聞いている。それが書くことだって言うことができたので、僕はそれから30年以上書いているんですが、あんなに幸せだったことはありません。
もう友達とも会わず、家族もなしだったので、次の日が来るのが待ち遠しくて。不思議なのは、一日ごとに自分のなかの音楽を聞き取る能力が増していくのがわかるんです。「昨日はここまでしか聞こえなかったけど、今日はもっと聞こえる」、「明日はもっと聞こえるようになるだろう」という確信がある。
だから、すごくフィジカルな、音楽的な経験です。たぶん、そのとき僕が作家になったんだと思うんですけれど、それは書くのが大変とか、書くことの困難さとかではなくて、とても喜ばしい体験によってです。
それ以降も、そういうことがたまにあるんです。1カ月ぐらい毎日、もう特別な空間のなかにいて、すごく豊かな気持ちで過ごせたというのは。これがやはりどこかで、僕たちが作家になるときに、創造の神様が与えてくれる特権的な時間、音楽的な時間ではないかと思います。いま考えても、リズムみたいなのが、「ああ、あのときこうやって聞いていたよね」というのは、よく覚えています。
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