生きるとか死ぬとかってけっこう虚しいよなぁと思う人へ
『時間の比較社会学』真木悠介
(岩波書店)初出1981
どうせ死ぬ! VS だけど生きる!
時間を相対化するという挑戦から、誰もが抱える「どうせ死ぬんだから意味ないじゃん」という虚しさに対抗した労作。#比較社会学 #「時間」とは何か? #今の日本の時間感覚はどこから来たのか? #様々な時代・国の「時間」を考える #文章がきれい #ニヒリズムからの脱却 #なんとなく虚しくなったときに読みたい
〈人生はみじかく、はかない〉という命題を第二に検討してみよう。
年々歳々花相似たり
歳々年々人同じからず
という劉廷芝の詩は、「客観的」でのがれがたい時間の事実をうたっているようにわれわれには思われる。
けれどもめんみつに検討してみると、それは時間の客観的事実ではなく、人間のみの個別性にたいするわれわれの執着のもたらす感傷にほかならないことが分かる。(中略)〈人生はみじかい〉という命題はじつは、なんらの客観的事実でもなく、このように途方もなく拡大された基準のとり方の効果にすぎない。
さらに「みじかさ」が、たんに相対的不満でなく絶対的なむなしさの意識となるのは、このばあいもまた、生存する時がそれじたいとして充足しているという感覚が失われ、時間が過去をつぎつぎと虚無化してゆくものとして感覚されるからである。
—「時間」というものを「相対化」すること。
そんなこと可能なんですかね。可能なんですよ、実は。
時間というと、当たり前に1日は24時間で、西暦はどんどん進んでいって、時間ももう進めば進むほど取り戻せないもの……そんなふうに思いますよね。そんなん絶対変えられない真実じゃないか、と。
だけど実は、そうでもない。
今の私たちが持つ「時間」の感覚は、実は「つくられた」ものであり、「そうじゃない」時間感覚というのは存在するんですね。ですから、「時間」だって相対化できるわけです。
え、でも、どうやって?
そう思ったあなた、ぜひこの本を読んでみてください。
「どうせ死ぬんだし」を超えていくための本
この本の作者の真木悠介さんは社会学者なのですが、わかりやすく明晰な文章でいろいろなことを教えてくれます。
たとえば、今の私たちの時間感覚はどこから来たのか? どうして「どうせ死ぬんだし」って思うようになったのか? 自分たちが当たり前だと思っていることは、どれくらい当たり前じゃないのか?
真木先生の手にかかれば、
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