22日ぶりの娑婆だ。
清掃工場から漏れるダイオキシンで汚れた外気でも、狭い留置所から解放されたばかりとあればうまく感じる。
俺は生まれる前よりずっとむかしに作られた東映ヤクザ映画の主人公を真似、両腕を高く突き上げながら肺いっぱいに空気を吸い込んだ。
身元引受人の弁護士が担当の警察官に深く頭を下げる。見ちゃいられなかった。俺はわざと背中を向け、ビンテージのアディダスをせかせかと踏み鳴らした。
俺にとっては強姦未遂の疑いから逮捕なんて屁でもなかった。無罪だ。俺が金持ちの息子と知って騒ぎ立てただけなのだ。
弁護士の運転するアウディに乗り込む。30代前半にしか見えないが実際は七十歳。美容外科の進歩はこの女の顔面を見ればわかる。
「かずちゃん……何度お母さんの手を煩わせれば気が済むの。今回も事件をもみ消すために、あちこち頭を下げに回ったわ」
俺は助手席でシートベルトを着けず、聞いていないふりをして窓の外を眺める。車は池袋のびっくりガード下を潜って明治通りを道なりに進む。留置所にいた間に晩夏はとうに過ぎ去り、行き交う人はすっかり秋めいた装いで、誰もが足早にこの場所から去ろうとしているように見えた。
無理もない。中国との長い事変が収束を迎えたとはいえ所詮一時的なものだし、物資不足により米と酒は依然配給制のままだ。繁華街を
おふくろの愚痴は止まらなかった。
「さっきの刑務官、〝御子息を御国に捧げたらいかがですか〟だって。ふざけんじゃねえよ。こっちは犬死にさせるために育ててきたんじゃねえ」
いまどき「女のくせに」は明確な差別用語だが、やっぱりキツい女だと思う。
信号が青になっても発車しないベンツに向かってクラクションを鳴らす。俺はガキの頃からこの性格に付き合わされてきた。
俺が生まれる前から経済的徴兵令は事実上施行していたが、この頃では愚息を鍛え直すため軍に差し出す親もめずらしくない。ほとほと手を焼いているはずが、それでも俺を守ろうとするのは誰のためなのか。
「世界にひとつだけのニッポン!」
国威発揚のスローガンがラジオから流れる。明るく元気な声で呼びかけているのは再結成したSMAPだ。といっても今や3人しかいないのだが。
「みんな〝戦争反対〟って叫んでいたのに、ミサイルを撃ち込まれたら発狂状態になって、〝自分たちを守ってくれる自衛隊を応援しないのは非国民〟とか言い出して、結局この有様だよ」
おふくろが憂う。俺の片頬が意地悪く持ち上がった。
「自分のガキを戦場に行かせないのは、愛国を口にするネトウヨも、あんたのようなヘサヨも同じだな」
憎まれ口を叩いてやった。甘えていると自覚しながら。
しかしおふくろは表情を一顧だにせず、早く着替えてと促した。後部座席には黒のスーツとネクタイがあった。
「きょうのうちに釈放できて良かった。パパが見守ってくれてるね」
パパ、か。失笑を止められなかった。
「何が可笑しいの」
「別に」
「ちいさい頃は私よりパパに懐いていたのに」
「覚えてねーよ」
「かずちゃん、大きくなったらパパと結婚するって言ってたんだよ」
「殺すぞ。それと〝かずちゃん〟はやめろ」
俺は後部座席に移るとシャツを脱いだ。剥き出しになった上半身をおふくろがバックミラーを覗いて目を細める。
「見世物じゃねえぞ。金出せ」
おふくろが微笑む。
「パパに似て色白だなと思って」
俺は舌打ちをしてYシャツに袖を通した
俺にとって樋口毅宏は邪魔者でしかなかった。いや、邪魔者と言うより侮蔑の対象であり、最大の反面教師と言ったほうが正しい。
これまで自己紹介をするとき、おふくろの姓である三輪を名乗ってきた。子供の頃は、「どうして樋口一文ですと自己紹介しないの」と、おふくろから責められた。
俺はオヤジの著作を読んだことがない。生きてるうちから、あんなおっさんの本なんて誰も知らないとやり返した。
世間一般でもオヤジは小説家として名が通っていない。作家としてより、破天荒な変人として知れ渡っている。
オヤジは45歳のとき——俺が一歳のときに——育児に専念するため作家業を引退した。早すぎる晩年を迎えたオヤジは家庭に入った反動から荒れた。
未発見作品が山本周五郎賞の候補に入るも落選。「四流以下の感性と文章力」とこき下ろした選考委員がリベラルを標榜する人権派だったのがまずかった。
「てめえなんざデビュー作が映画化されただけの一発屋だろうが!」
オヤジはそいつを愛人宅で闇討ちし、麻酔なしで歯をすべて抜いたところを現行犯で逮捕された。そして釈放後、極右に転向。痴漢、下着ドロ、結婚詐欺師、シャブなどで順調に前科を重ねた。
齢50を機に新興宗教の教祖になり、全裸による真冬のエベレスト登頂、AV男優兼社長として落ち目のアイドルとナマ嵌め映像配信で荒稼ぎをする一方、いたいけな俺は好奇の視線に晒され、学校でイジメられて、引きこもりに陥った。
オヤジは部屋から出てこない俺に向かって扉越しに大声をあげた。
「一文ぃ、子供が将来なりたい職業ベストテンのネット記事読んだかあ? 1位がユーチュバーで3位にAV男優だとよ。おまえは幸せ者だな。1位と3位の父親を持って。学校には行かんでもいい。パパの会社の跡を継ぎなさい」
今も耳朶に残っている。俺は机の下で声を殺して泣いた。
オヤジは猥褻電磁的記録等の送信頒布と重婚の疑いで7回目のお縄を頂戴した。
挙げ句の果てには刑務所からの脱走をYouTubeLiveで生配信した後、逃亡先のインドのガンジス川で、溺れた子供を助けようとして自分だけ死んだ。一部では水牛との交尾を試みるも後ろ足で蹴られて大腸破裂とも報じられた。
生きているうちさんざん病気を怖がっていたオヤジにふさわしい死だった。
次回「樋口毅宏二十三回忌の厄災」は11月22日更新予定