あの人が失踪したことを話すには、高校時代の文通の話からしないといけない、というようなこと

2016年に、第154回芥川賞を受賞した滝口悠生さんの新作『高架線』。ヒーローも派手なエピソードもない、西武線沿線の古いアパートという、地味な舞台で繰り広げられるお話ですが、文章を追うだけで味わえる楽しさがあります。その魅力の源泉はどこにあるのでしょう。
後編、「冗長」や「散漫」が実は散文の大事な能力と語る滝口さんの意図とは。

三郎が中瓶とグラスを三つ持ってきた。田村がすばやく瓶を手にすると、私と歩の分を注いでくれた。私が替わろうと下が、いい、いい、と田村は自分の分も注いでしまい、じゃ、かんぱーい、とやけに陽気なかけ声でグラスを掲げた。私も、かんぱーい、お疲れさまー、と言ったが、歩はグラスを差し上げながら黙ったままだった。

(『高架線』より)

根本的なこととして、なぜ取るに足らない話を小説に書くのでしょう。強大な敵と戦って、勝った負けたと言っている小説のほうが明快だし書きやすそうですが。

 勝ち負けとか、明快さとは違うことをしようとしている、ということでしょうね。
 たとえば、人はなぜ何かを語ろうとするのか、ということをよく考えます。「この間こういうことがあってね」と伝えようとするときは、その人が何かを思い出して、それをだれかに伝えようとしているものです。ということは、その人の思い出し方や記憶のありようによって、話すことや話し方は変わってくる。

 思い出し方って、コントロールできないものですよね。人は思い出したくないこともつい思い出してしまうし、自分が思いもよらないことも思い出す。思い出したくても思い出せないことだってある。忘れたくないのに、忘れてしまうこともある。なんとも、ままならないものです。人の記憶は、本人でもまったく手に負えない。でもだからこそ、何かを語ろうとする、言葉にしようとするのではないか。

 小説を書く時にも、その「ままならなさ」を、なるべく残せるように書こうとしています。人にはそれぞれ、記憶の道筋というものがある。だから、話がそれるから不要だとかっていう切り捨て方はせずに書いていく。すると、話はそれながらもなんとかつながっていくものです。直接は関係ないんだけど、あの人が失踪したことを話すには俺の高校時代の文通の話からしないと本題にたどりつかない、俺の中ではふたつはひとつながりの出来事になってる、というようなことですね。

 話がずれていくおもしろさは、人と会話しているときにはよくあることでしょう? でも、小説ではそのあたりのおもしろさをなかなか書けない。なぜだろうとよく考えます。

 たとえば日記をつけていて今日の出来事をまとめるとき、何を書いて何を書かないか。思い出しづらいことや書きにくいこと、文脈に入れ込みにくいことは排除してしまいがちです。小説を書くときには、そういうのをどれだけ捨てずに書き込めるかに挑戦しています。これがなかなか難しいんですけどね。

書き方、というかストーリーの語り方の工夫についてはどうでしょうか。『高架線』は、びっくりする語り方が全編にわたって採用されています。章が変わるごとに、冒頭で語り手が名乗るのです。

「新井場千一です。私の実家は〜」
「七見歩です。私が〜」

といった具合に。こんな書き方の小説は読んだ覚えがありません。

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思い出すことで、見出され、つながっていくもの。 注目の芥川賞作家、初めての長篇小説。

高架線

滝口 悠生
講談社
2017-09-28

この連載について

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文学者の肖像

山内宏泰

文学とは、なんなのか。文学者たちは今をどうとらえ、いかに作品に結実しているのか。言葉に向き合う若き作家たちの「顔が見える」インタビューシリーズです。

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コメント

marekingu #スマートニュース 約1年前 replyretweetfavorite

tamipaca 泣かず飛ばすの僕にとって、滝口さんのような先駆がいることは幸か不幸か。 https://t.co/gtdKx9j29T 約1年前 replyretweetfavorite

gunzo_henshubu cakesの滝口悠生さん『高架線』インタビュー後編は「 約1年前 replyretweetfavorite