その日、カウンターで横並びになった男は、どう見ても一般人には見えない風体の老人で、横目で見ることすらためらわれるほどの強面(こわもて)だった。室内だというのにサングラスをかけ、長い髪を後ろに流し、白髪混じりのヒゲをもっさり生やしている。まるで、仁義なき時代を生き抜いた武闘派ヤクザが、間違えて仙人になってしまったかのような顔だ。
今村がお目当ての調味料を取るには、人一人くらい絞め殺しそうな太さの腕を越え、老人の目の前に手を伸ばさなければならない。そんなことで怒るような人間は少ないとは思うが、まかり間違って「おいニイチャン」「なに、人様の前に手を出してやがる」などと言われたら万事休すだ。
ならば、調味料を諦めればいい話なのだが、オバちゃん謹製の特製辛味ダレは、スタミナ炒めに少し回しかけるだけで、圧倒的な旨さを生み出す魔法のタレだ。スタミナ定食を頼んだら、前半はプレーンの味を楽しみ、後半から辛味ダレを追加して味の変化を楽しむ。慣れ親しんだルーティンを変えるのは嫌だった。
どうしようか必死で考えているうちに、自分の頭から何かが漏れて、タレの小瓶に吸い込まれていくような感覚があった。横目で老人を見ると、顔は真っすぐ前を向いていて、小瓶はノーマークだ。あと十センチほど引き寄せられれば、何食わぬ顔で小瓶を取ることができそうだった。
集中力が増した瞬間、自分の体と小瓶が見えない力で繫がったような気分になった。来い、動け、と強く思うと、タレの小瓶は、リニアモーターカーのようにすっと浮き上がり、右に十センチばかり、音もなくスライドした。
老人は、気づいた様子もなく、ぼんやりと正面を向いたままだ。今村は手を伸ばして小瓶を取り、自分の手前に置いた。老人がちらりと今村を見て首を捻(ひね)る。何もしていません、とでも言うように、今村はそしらぬ顔でタレをかけ、きっちりとスタ定を完食した。
会計の段になって、どっと冷や汗が出るのを感じた。いったい自分は今何をしたのだ? どう考えても、普通の人間ができる芸当ではない。老人に気づかれていたら、ちょっとした騒ぎになってもおかしくなかった。変な噂が立って、某国の諜報機関にマークされたらどうしよう。超能力を軍事産業に利用しようとする悪者に拉致されるかもしれない。これは、人に見られてはいけない力である気がした。
中学二年生レベルの妄想を頭に描きながら、オバちゃんに千円を渡して、お釣りを受け取る。そそくさ退散しようとすると、オバちゃんが邪気のない顔で「さっきのあれはどうやったの?」と尋ねてきた。どうやら人に見られてはいけない力を、早速人に見られていたようだった。
それからしばらく、どれほどの能力が自分に秘められているのか、今村はいろいろ探ってみた。大きなもの、重いものは動かせない。動かせるものでも、わずか十センチほど動かすのが限界だった。それも、向かって右にだけ。しかも、能力を使えるのは一日一回だ。それ以上は、集中力がもたない。
「おい」
「あ、はい」
「聞いてんのか、てめえは」
「は、はい、聞いています」
僕の能力はなんと役立たずなのだ、と改めてがっかりするのと、課長から、役立たずはシュレッダー係やってろ、と言われたのが同時だった。今村は、すみませんでした、と深々頭を下げ、さらに内勤の社員にも頭を下げて回った。
今村に課せられた仕事は、ただひたすら溜まった書類をシュレッダーに掛ける、というものだ。もちろん、専任者を置くほどの仕事ではない。使えない社員を嘲笑するための、見せしめだ。課長の怒りの度合いによって期間は変わるが、数日間、毎日シュレッダー係をやらされることもある。
丸一日、溜まりに溜まったすべての書類を片付け、細断クズをゴミ袋にまとめ終わる頃には、事務所に人の姿はなくなっていた。壁の時計を見ると、もう二十三時になっている。そりゃ誰もいないわけだ、と、疲れ切った体を押して戸締まり消灯を確認し、外に出る。小さな事務所の周辺には人の姿などなく、しんと静まり返っていた。
家までは、自転車で三十分ほどの距離だ。通勤用の自転車を置いてある事務所裏の駐車場に向かうと、暗闇の中に、誰かが立っているのが見えた。じっとこちらをうかがいながら、一歩、二歩と近づいてくる。薄暗い街灯に照らし出された姿に、今村は体が硬直していくのを感じた。がっちりとした体格に長髪、伸ばし放題のヒゲ。作務衣(さむえ)を着こみ、夜だというのにサングラスを掛けている。手には、白いステッキを携えていた。
「今村さんですかな」
低く、くぐもった声が聞こえた。今村は、とぼけようかどうしようか迷った挙句、男の圧力に負けて、そうです、と蚊の鳴くような声で答えた。いつだったか、三葉食堂で隣にいた、ヤクザ仙人に間違いない。