「はぁ……」
「あら、麻奈ちゃん、またため息。幸せが逃げちゃうわよ。ほら、吸って吸って」
「あ、うん」
母の美子に促されるままに、麻奈は息を吸いこむ。物心ついた頃から20年近く続けてきた習慣だ。ため息をつくと幸せが逃げるからすぐ吸いこむように、というのが麻奈が小さい頃からの美子の教えだった。
「何かお茶でも飲む?」
「うん、じゃあホットのチャイ」
美子のいれてくれる熱いチャイが麻奈は大好きだ。丁寧にいれられた味がする。
麻奈がチャイを飲んでいると、心配そうな顔で美子が話しかけてきた。
「麻奈ちゃん、会社で何か嫌なことでもあった?」
「あー……うん、何があったってわけではないんだけどね。……なんか最近、会社にいづらくって」
「そうなの? 仕事で失敗しちゃったとか? それとも誰かにいじめられているの?」
ひとり娘の麻奈は、昔からなぜだか人に嫌われることが多く、いじめられやすい子だった。母として幼少期からずっとその様子を見てきた美子は、麻奈が社会人となった今も、常に心配で仕方がない。
「ううん、本当に、そういうことではないの」
「そう……ならいいけど……」
「誰からも、いじめられてはないんだけどね。なんだか、社内全体からの風当たりが強いような感じがしていて。一生懸命やってるんだけどね、キツい言い方をされたり、冷たい対応をされることがあって……」
「あら……! やあねぇ……それじゃあ会社に行くのが嫌になっちゃうわよねぇ……人間関係って大切だものね」
「そうだねー……」
「あ、そうだわ!」
そう言うと、美子はエプロンのポケットから1枚の小さなカードをとり出し、麻奈にそれを差し出した。
「ねえ、麻奈ちゃん。ここ行ってみたらどう?」
「え、何? 王生際ハナコ作戦会議室……?」
「うん、なんか、すごいんだって。お母さんも人から聞いた話で詳しいことはわからないんだけど、なんでも、欲しい未来を手に入れるための作戦会議をしてくれるらしいのよ」
「へえ……」
*
翌日の夕方、さっそく麻奈は王生際ハナコ作戦会議室を訪れていた。
「こんにちは、王生際ハナコです」
「川田です。よろしくお願いします……」
母の心配そうな顔を見ていたらいたたまれなくなり、思わず予約を入れてここに来てしまったが、これといって何か具体的な悩みがあるわけでもないし、一体どう相談すればいいのだろう。
……どうしよう。
麻奈が自問自答していると、ハナコが持ってきたノートを開き、
「ここに、お名前書いてもらっていい?」
そう言って、まっさらなページとボールペンを、麻奈の前に差し出してきた。「川田」と書いて戻そうとすると「下の名前も書いて~」と言われたので「麻奈」とつけ足して戻す。
「今、何歳?」
「今年で24歳です」
「そうなんだ。今年でってことは、今はまだ23歳?」
「あ、いえ、24歳になってます」
「そっか」
ハナコが名前の横に年齢を書き加えていく。その様子をただ眺めていると、書き終えたハナコがペンを置き、改まったように麻奈を見た。
「私は占い師ではないので未来の予言をする係ではありませんし、心理カウンセラーでもないので心の治療もいたしません。私の仕事は、お悩みを解決することです。一緒に、あなたの人生の問題を解決します。具体的に言うと、あなたが欲しい未来を手に入れるための作戦を、一緒に考えるというわけです」
欲しい未来を手に入れるための作戦……母が言っていた通りだ。
「欲しい未来を手にいれるために、今日から取り組めるミッションを決めて、あなたの人生を動かしていきましょう」
そこまで言い終えると、ハナコの表情が一気にほどけた。一仕事終えたような、そんな顔をしている。
「で、どうしたの? 何か悩みがあるの?」
そうだ。私は今日この人に「欲しい未来を手に入れるための作戦」を立ててもらわなくてはいけないのだ。そう考えて、ふと麻奈は思う。私の欲しい未来ってなんだろう。
「……」
自問自答していたら言葉が止まってしまっていた。
「あれ? 悩みは、とくにないのかな? どうして今日、ここに来ようと思ったの?」
ハナコに話しかけられて、言葉を返していなかったことに気づく。
「え、あっ、あの母が」
「お母さん? お母さんに勧められたのかな?」
「はい」
「ずいぶん情報通なお母さんなんだね(笑)」
そう言ってハナコが笑ったので、麻奈は少し、張り詰めていた気持ちがほぐれた。
「そんなことないんですけど、母の友人の佐々木さんの娘さんが、こちらに来たことがあるらしくて、たまたま」
「そうなんだ~。お母さんとどんな話をしていたら、ここの話題になったの?」
「あ、えっと、昨日の夜、私がため息をついたんです」
「うん」
「それで、何かあったの? 会社で嫌なことあったの?って」
「うんうん」
そして麻奈は、昨夜の一部始終をハナコに話した。途中でハナコが「え、ってことはお母さん、いつもスパイスからチャイティーいれてくれるの? すごいねえ」と言ったので、麻奈は嬉しくなった。大好きな母を褒められた。その嬉しさの分だけ、ハナコへの警戒心のようなものが溶けていくのを感じた。
麻奈がすっかりリラックスした気分になっていると、ハナコは話を聞きながらメモをとっていたノートを眺めながら「なるほどねー」と何かがわかったような様子で何度か頷き、それから、こちらを向いて話しはじめた。
「つまり、ここ最近『会社にいづらい』ってことだよね? それで会社に行くのが憂鬱になっていて、会社から帰ってくると、ついため息をついちゃうってことだよね?」
「あ、はい、そうです」
「ため息をつかずにいられるような感じで会社に通えるようになりたい、ってことかな?」
「あ、そうだと思います! 私の欲しい未来、きっとそれです!」
「オッケイ」
「はい!」
ここに来た時は、一体どう相談したらいいものかわからなかったけれど、早くもだいぶ状況が整理された気がする。いい流れだ。
「じゃあ、欲しい未来を手に入れるために、もっと具体的なことを知りたいから、現状をいろいろと確認させてね」
「あ、はい」
「会社にいづらいなぁって思うようになったのは、いつ頃から?」
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