教育熱心な母親
1986年、僕はサラリーマンの父親と専業主婦の母親のもとに誕生した。
幼いころの記憶として今でもよく思い出すのは、母親が教育熱心だったことだ。当時は、子どもをKUMONに通わせる家が多く、僕も3歳のころからKUMONに通っていた。
そして、小学校4年生の時、父親の転勤で名古屋に引っ越すことになるのだが、そのころから「中学受験」という言葉を母親の口から耳にするようになったのだ。
「幼稚園のときからKUMONにも行ってたんだし、小学校の成績も悪くないんだから、もったいない」というのが母の考えだった。
小学4年のときには母の言葉を聞き流していたが、無意識に耳に刷り込まれていったのか、5年生になると自分でも中学受験に挑戦してみるかという気持ちが強くなった。最終的に中学受験に挑戦することを決めると、僕は試験に合格するという目標を掲げて勉強に力を入れていく。
中学受験を成功させるためには、塾に通うことを考える必要があった。
僕の地元である名古屋は河合塾発祥の地であり、圧倒的な実績と人気を誇っている。とりわけ中学受験のための王道といえば、河合塾のグリーンコースに入ることだった。ただし、ここに入るためには入塾テストに受からなければならない。受験競争はすでに始まっていたのだ。
父親からはあまり感じたことはなかったが、母親からは、将来は弁護士か医者になってほしいという期待を感じることがあった。そうしたこともあり、たとえ経済的に苦しくなっても母親は僕を私立中学に入れたかったようだ。
半ば母親に背中を押される格好だったが、勉強は小さいころから嫌いではなく、抵抗を感じることはなかった。さらに、テストでいい点数を取ればおもちゃを買ってくれるという約束を交わしたことも相まって、僕は嬉々として机に向かった。
その後、難なく入塾テストにパスした僕は、5年生の4月から中学受験のために塾通いをすることになり、晴れて受験に合格すると、地元にある中高一貫校に通うことになったのだった。
珍しがられたユニクロのシャツ
進学した中学校では、すぐに友だちを作ることもでき、楽しい日々を過ごしていた。
入学当初はあまり気がつかなかったのだが、中学2年の途中ぐらいになると、同級生たちの家がお金持ちばかりだということを実感する機会が増えていった。
1年生のころはまだ幼いせいもあって、彼らの持ち物などに関心を払うこともなかったのだが、思春期に入った2年生のころから身の回りのことが気になり始め、同級生の持ち物や着ている物に意識を向けるようになった。このことがひとつのきっかけとなり、彼らの家がお金持ちだということに気がつき始めたのだ。
制服に関してはみんな同じものを着ているので大した違いはないのだが、ベルトやシャツを比べると明らかな違いを発見することができた。よく見てみると、彼らはさりげなくグッチのベルトをしていたり、バーバリーのシャツを着ていたりするのだ。通学用のカバンがエルメスやプラダということも珍しくなかった。何気なく机の上に置いてある筆箱がヴィトンだったりすることもあった。彼らの持ち物は、ことごとくブランド品で固められていた。
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