もう、余計な時間をかけている余裕はなかった。俺は海月を説き伏せて左腕を吊ったまま運転席に座り、最大限の注意力を働かせつつ車を動かした。海月は怖がってドア上のハンドルを掴んでいた。一応キャリアだし警部である。あんたの運転よりはましです、ということは言えなかった。
堀之内氏は俺たちの煤だらけの姿に驚き、いきなり消えたと思ったら戻ってきて「地面を掘りたい」と言いだしたことにも驚いた様子だったが、とにかく軍手やシャベル、ネコ車といった道具を貸してくれた。学校というところは、そういうものには事欠かない。
俺も海月ももう汚れきっていたし、なりふり構ってはいられなかった。膝に土をつけ、汗を拭って顔に黒い筋をつけながら瓦礫をどかし(海月には一応、ダッフルコートぐらい脱いではいかがですか、と訊いたのだが)、露出した土にシャベルを突き立てる。最初は慣れなかったが、膝や腰をうまく使えば、片手でも土を掘る作業は結構できるらしかった。
だがしばらく掘ってみると、作業が進みやすい理由が分かった。通常、穴を掘る時に障害となる石や木の根が、今掘っている地面にはほとんどないのだ。土自体も柔らかい気がする。
四十センチほど掘ったところで見つけたものがあり、俺は傍らを掘る海月に声をかけ、それを指し示した。
「……どうやら、間違いありませんね」
海月も頷いた。三センチほどの太さの木の根がすっぱりと切断され、滑らかな断面を見せていた。間違いなく誰かが、それも最近、ここを掘ったのだ。
俺たちは汗を拭いながら作業を続けた。どこまで掘っても、土は柔らかかった。いつの間にか昼休みになっていたらしく、スーツ姿で穴を掘る俺たちを、子供たちが遠巻きに見つめていて、「何やってんの」「あれ刑事?」「何かあるのかな」と囁きあう声が聞こえてきた。手ぐらい振ってやればよかったのかもしれないが、相手をしている余裕はなかった。
そのままどのくらい掘っていただろうか。いつの間にか子供たちがいなくなり、穴は深さ一メートル、直径二メートル近くに達していた。そこで初めて、シャベルを突き立てた土が硬くなったのを感じた。
腰を伸ばして傍らの海月を見る。穴の横から土を掻い出す作業をしていた海月が穴の中に入って地面を触り、頷いた。「ここまでだったようですね」
「深いな……」俺は腰を捻る。背中も腰も張っている。「元の規模まで穴を広げてみます。何か出てくるかもしれない。俺、一人でできますので警部は……」
「それでしたら、わたしが」言いかけた海月は少し考える様子を見せ、それから頷いた。「分かりました。では、わたしは用務員の方にお話を伺います」
「そうですね」掘っても何も出ない可能性があるのだ。「何か出たら報告します」
「お願いします。それと、昔ここに何があったのかも調べます……ひゃっ」穴から這い上がろうとした海月は足を滑らせ、顔面から倒れた。
「法務局ですね」俺は呻きながら眼鏡をかけ直す海月に手を貸し、穴から上がらせた。「お願いします」
前髪に土をつけたままぱたぱたと校舎に駆けていく海月を見ながら、俺は大きく息をついた。こうして見るといささか頼りない相棒だが、まあ、いい。力仕事の方は俺がやればいいのだから。
俺はシャベルを振るい、土壁を崩して穴を広げる作業を続けた。肩も右腕も、持ち手を握る指も痛かったが、それほど苦痛には感じなかった。もともと、刑事の仕事など、一日歩き回って成果ゼロが普通なのだ。掘りさえすれば必ず結果が出るこの作業は、むしろ気が楽だった。
しばらく掘っていると、シャベルの先が何か硬いものに当たった。小さいスコップに持ち替えて土を崩すと、埋まっていたのは金属の缶だと分かった。ラベルも塗装もしていない金属色の缶。食品の缶詰のように見えたが、掘り出してみるとそれなりの重さがあり、バレーボールぐらいの大きさがあった。缶の隣には木の板が刺さっている。どうやら、この缶を入れていた木箱の一部のようだ。
土を崩して缶を引っぱり出し、膝の上にのせてついた土を払う。缶の表面は赤錆で覆われており、そうでない場所もくすんだ銀色をしていた。相当、古い缶のようだ。犯人が掘り出したかったのはこれだろうか。
缶の表面には何も書いていなかったようなので、俺は缶の隣に刺さっていた板を掘り出してみることにした。缶同様にかなり古い板だが、こちらには何か文字が書いてある。
「設楽さん」
上から呼ばれて見上げると、海月ともう一人、作業服の男性が立っていた。
「用務員の林さんです」
海月が紹介すると、初老のその男性は頷いた。「こりゃまあ、随分と掘りましたなあ。えっ、しかも片手で?」
挨拶を交わし、「いやあ、刑事さんってのは根性あるんですなあ」とひたすら穴の規模に驚いている林さんの隣で、海月が言う。小屋が建てられたのは七年前だそうだが、その時のことで特に覚えているようなエピソードはないらしい。
「ここ、小学校が建てられる前は畑だったそうです。怪しいところは、特に」海月も言い、それから俺が掘り出した板を見る。「あっ、何か出たのですね」
「この缶が。同じのがまだいくつか埋まってそうです」俺は足元に置いた缶を指さした。「何の缶なのかはまだ。ちょっと待ってくださいね。この木箱みたいなのに入ってたようなので、今、この板を」
俺は土壁に足を踏ん張り、露出した板を引っぱり出した。軍手で土を払うと、やはり何か文字が書いてある。片仮名だ。
「ムーロ……何でしょうね。商品名かな」片仮名の上にも何か漢字らしきものが書いてあったが、そちらはもう判読できなかった。「ああこれ、右から読むんですね。サイローム……」
板を林さんに手渡し、足元の缶を手に取る。「この缶のことだと思いますが、何でしょうね。もしかしたら戦前くらいの……」
海月は目を見開いたまま立ち尽くしていた。視線は俺の持つ缶から動かない。
海月の唇がかすかに動き、かすれた声が漏れた。「……はなれてください」
「は?」
海月の顔色が白くなっていくのが分かった。
「……どうしました?」
海月は突然叫んだ。「置いてください! その缶から離れて!」
「はあ?」
「早く、早く置いてください! 危険です!」海月はかすれる声で言う。「サイロームです。設楽さん、早く! それ、農薬です!」
「ああ、なるほど」手に持った缶を見る。「そうですね。……何ですか、サイローム?」
「早く置いて、穴から出て逃げてください。缶が破れたら死んでしまいます!」海月はこちらに身を乗り出して手を伸ばす。「缶をそっと置いて! その中に入ってるのは青酸ガスです!」
「……は?」
「燻蒸消毒用のガスなのです。青酸ガスを吸着させた土が入っていて」海月は叫ぶ。「使う時は袋で覆って、周囲を立入禁止にするんです。それでも危険すぎて、戦前から使用禁止になったのです」
「なっ」その隣で林さんが口を開けた。「サイロームってあれか。親父から聞いた、あの、ネズミを殺すやつ。事故で人が死んだって」
「実質的に毒ガス兵器なんです! そっと置いてください。開けると青酸ガスが発生します」海月はこちらに手を伸ばす。「早くこちらに。缶が腐食しています。破れるかもしれません!」
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