闘いの歌が恋の歌になっていくとき

日本のフォークソングは岡林信康の時代から吉田拓郎の時代へと変化を迎えていた。その大きな象徴となった1971年の中津川フォークジャンボリーはいかなる意味を持っていたのか。その観客たちは何に怒っていたのか。現代から改めて読み解きます。

 個人的な興味が強いので、この1971年中津川フォークジャンボリーの仔細を見ていく。
 このフォークジャンボリーは複数のステージが用意されていた。
「メイン・ステージだけでなく、サブ・ステージというものまでが2つも特設され、さらに黒テントとか、野外映画場などというのもあって、なんだか面倒な構成になっていた」(『日本フォーク紀』)。
 メイン・ステージにはおよそ一万人の観客が集まっていた。サブステージのほうは数百人(200人から500人ほど)の規模だった。吉田拓郎の人間なんてが歌われたのは、第一サブステージであり、そのとき同時にメインステージでは一万人客を相手にメインコンサートが開かれていた。
 サブでの「人間なんて」熱狂を〝フォークジャンボリーの象徴〟と言うの無理がある、というのはこの数字に基づいている。二万人コンサートのうちの千人しか聞いてないものは、象徴とは言えない。数字から見れば正論である。95%の観客が(1万9千人が)聞いておらず、5%(千人)しか見られなかったものを(実数は97対3くらいかもしれない)、そのコンサートの象徴と言われても、みんな納得できない(現場にいたのに聞いてない人は、認めるわけにはいかない)というわけである。
 ただ、このコンサートのあと、吉田拓郎は一気にスターダムに駆け上がっていく。岡林信康は隠遁して一線から引いた。そこから見れば、このコンサートは転換点だったとわかる。歴史から見た視点と(山本コウタローの歴史観)と、現場からの違和感(なぎら健壱の所感)の差である。

 メインステージでは、ひたすら「帰れ」コールが連呼された。少しでも売れている歌手にはそういうコールがかけられていた。
「ちょっとでもメジャー路線を走っている連中は、全員『帰れ』コールをやられるという凄いものだった。かつてはフォークルの一員として、アングラの頂点にいたはしだのりひこでさえ〈風〉というメジャー・ヒットがあったもので、「帰れ」コールを食らうことになる。吉田拓郎も二日目メインステージでは「帰れ」コールを浴びた。当時あんなに人気のあった吉田拓郎がと不思議な感じがするかもしれないが、やはり岡林信康や加川良とはその人気の形態が違っていたのである」(『日本フォーク私的大全』)
 吉田拓郎がメインステージに出たのは2日目というか1日目の深夜(1日目の25時とか26時くらい)であり、メインステージは27時(午前3時)に岡林信康でいったん終了する。次のメインステージでのライブは翌日の午後4時からだった。
 吉田拓郎の述懐によると、何の説明もないまま、岡林信康を盛り上げるためだけにみんな動いているようで、かなり不愉快だったらしい。最後に出てくる岡林の時間を確保するために、拓郎は曲数を減らされたという。「何かすべてすべてが真打ち=岡林のために仕組まれて演出されているみたいでね、すごく頭にきたよ。その時俺は思った。俺自身のメイン・ステージは終わった。もうやる意味がないってね」(『誰も知らなかったよしだ拓郎』)
 岡林信康中心の進行に腹を立て、また、岡林につながる関西フォーク系の歌手を優遇しているのにも吉田拓郎は怒っていたらしい。「あの頃は俺もやっぱり、岡林をすごく意識していたよ。初日のメイン・ステージの出番はオレ、六文銭、岡林という順番だったんだけど、岡林がやっぱり最大のスターだったし、客はみんな岡林の登場をひたすら待ちつづけているって雰囲気だったじゃない。それで、確か小林啓子が出て、歌っている時だったと思うけど、岡林がちょこっとステージに出てきたんだよ。するってえと、客は一切に〝岡林!〟って叫んで、かわいそうに〝小林啓子、帰れ! 帰れ!〟なんだよね。もう最悪の状態さ。俺もあのとき、これはひょっとすると主催者の陰謀じゃないかって思ったくらいでね」(『誰も知らなかったよしだ拓郎』)
 そういうコンサートだったのだ。ちなみに小林啓子が出たのが午前0時くらい、そのあと御陣乗太鼓、薗田憲一&デキシーキングスが出て、吉田拓郎、六文銭、岡林信康という登場順だった。

 翌日、吉田拓郎はメインステージには出ずに、第一サブステージの客席で酒を飲み、他の出演者をヤジり、その酔った状態でステージに上がり、のちに伝説となる「人間なんて」1曲2時間(90分と書かれているものもある)の熱狂を演じる。おそらく、投げやりな気分と、怒りがないまぜになったパフォーマンスだったのだろう。(マイクが壊れたので、ガナるしかなかったとも言っている)。客はどんどん増えはじめ、熱気を帯びた客を、メインステージへ行こう、と共演の小室等が誘導して終えた。
「吉田拓郎がサブステージで熱いステージを繰り広げている頃、メインステージでは本田路津子あたりが猛烈な「帰れ」コールを食らっていた」(『日本フォーク私的大全』)
 本田路津子は、いかにも帰れコールを浴びそうである。
 夜になり、加川良が出て中川五郎、また加川良、都会の村人、クライマックスと続いたあと岡林信康が出て、そのあとが三上寛で、大喝采を浴びる。三上寛の迫力はすごい。そのあとなぜか日野皓正クインテットが出演し、その次にまたジャズの安田南(+鈴木イサオカルテット)が登場した。安田の演奏中に、不満分子によってステージが占拠される。
 たしかにこのプログラムは奇妙である。(歌手の登場順は前記のものをふくめ『日本フォーク紀』記載のものによる)
 岡林信康、三上寛と盛り上がったあとに、日野皓正、安田南が登場するのは、私がいま見ても違和感を感じる。フォークジャンボリーで、ジャズミュージシャンが連続して出てきたら、何か文句を言いたくなるだろう。誰がどういう意図を持ってこういう展開をしているのか、問い質したくなってもしかたがない。(岡林信康は、おそらくこのあと最後にもういちど出演する予定だったのだとおもう)。
 安田南に向かってすさまじい「帰れ」コールが続き、それは一万人の観客の合唱となり、そのあと「デモ隊がステージに向かい始めた」と書かれている。(『日本フォーク私的大全』)。デモ隊、というのがよくわからない。そう見えたのだろう。ものによっては「ベ平連」系ともある。要は不満と疑問を抱いた活動的な若者がステージに上がって占拠した。そのまま、討論会が始まってしまった。
 なぎら健壱によると「マイクは占拠され、そこから何がいいたいのかよく分からない、一方的な討論会が始まった。『入場料に対する疑問は』、『ジャンボリーの意義とは』、『テレビを中心とする取材に対する批判』、『商業主義批判』、『音楽舎は出ていけ』。まともな意見だけをまとめると、だいたいこのようなことになるのだが、討論をする彼らもまた猛烈なヤジを食らうのである。しかし彼らはそれに臆することなく、一方的な討論はますます熱くなっていくのである。(…)「岡林に釈明していただきたい」というようなとんでもない意見が出る中、収拾がつかないまま、その後、朝の七時まで延々八時間にわたって討論会は続くのである」(『日本フォーク私的大全』)。
 高田渡は二日目はサブステージに出ていた。彼の著作『バーボン・ストリート・ブルース』によると「一部の観客が暴徒と化してメインステージを占領、やれ『自由がない』『僕たちの歌がない』などと朝までしゃべりまくった」とある。「実はこのとき、武蔵野タンポポ団はメインステージと離れた別の会場で演奏を行っていた。あのバカな連中にステージを邪魔されなかったことは、今でもほんとうによかったと思っている」と不快感が露わである。
 黒沢進による『日本フォーク紀』では「結局、メイン・ステージはほとんど無内容な連中の気分によって占拠され、わけのわからない論争が朝まで続いたのであった」と記している。「翌年からは、もうジャンボリーは開かれなくなり、とくにそれを惜しむ声もなかったのは当然といえば当然、不思議といえば不思議であった」と続けている。
 山本コウタロー『誰も知らなかったよしだ拓郎』では「その夜のコンサートは多くのプログラムを未消化のまま残して中断された。メイン・ステージを占拠した若者たちは口をきわめて、マスコミと主催者と岡林信康を批判しつづけ、逆に拓郎の名前を叫びつつけていた。(…)かくして第3回全日本フォーク・ジャンボリーは「帰れ、帰れ」の怒号を残し、疲れ果てて終わった。(…)拓郎も小室氏も、コンサート変じてティーチ・インとなった、あのつるし上げ事件については何も知らなかったのである。そう、もうその頃は山を降り、さっさと帰途についていたのだから」とある。
 山本コウタローの「拓郎の名前を叫びつづけていた」、というのは、俄には信じられない。吉田拓郎の半生記だから、拓郎寄りに書かれている部分は差し引いて読んだほうがいいだろう。叫んでいた者が何人かいたのかもしれないが、全体に意見にはなっていなかったはずだ。(他の人が記録していない)。拓郎のサブステージの興奮のままメインステージに向かった者たちだけには、そう見えたのかもしれない。ただ〝つるし上げ〟と書いているのは山本だけである。ほかのは、かなり時間が経ってから書かれているが、山本はまだ当時の熱気が残ってる時代に書いたため、「怒った若者たちによる抗議」という空気をきちんと言葉にしている感じがする。

 1971年のフォークジャンボリーは、最初から観客が不満を抱えていた、と山本は書いている。
 1969年の参加者が2千人で、1971年の参加者が2万人である。これはおそらく「ウッドストック」の映画がヒットしたことが影響しているのだとおもう。二年で観客がいきなり10倍になったなら、まっとうな対応はできない。大人の視点から見ればわかる。手作りのコンサートなどやっていられない。大人の力や金も入れ込まないと、大混乱が起こる。三年連続で来ていた観客が、これはおれたちのコンサートではなくなっているぞ、と感じるのはしかたがない。

 夜を徹して、メインステージではずっと討論会が開かれた。とはいえ、ただ次々と自分の言いたいことを言っていただけだろう。討論ではない。一方的な発言の連続だ。しかも誰も聞いていなかった。「自分は意識が高いのだ」とおもう連中はいつの時代でも面倒なのであるが、時代が熱く、かかわりがナマであったぶんこの団塊世代の活動家たちは(人数が多いということもあり)おそろしく面倒である。それはサブカルの問題ではなく、日本そのものの問題へとつながっていく。

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1970年代の見張り塔からずっと

堀井憲一郎

高度経済成長が終わりを迎えた1970年代、若者文化もまた曲がり角に差し掛かろうとしていた。いまのカルチャーはどこまで行ってもこの曲がり角の先にある。日本人はこの曲がり角をいかにして迎え、そして無事に曲がることができたのか? 現代日本を...もっと読む

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consaba 堀井憲一郎「個人的な興味が強いので、この1971年中津川フォークジャンボリーの仔細を見ていく。このフォークジャンボリーは複数のステージが用意されていた。」 12日前 replyretweetfavorite