反商業主義とフォークソング

戦後日本の若者は、いったい何に"反抗"しようとしていたのか。60年代以降の日本のフォークソングシーンの中で芽生えた「反・商業主義」の流れとは? そして、「岡林信康の時代から吉田拓郎の時代への転換」はいかにして起きたかに迫ります。

 1969年のアメリカでのウッドストックやオルタモントの野外コンサートが無料だったというところにも当時の空気がある。
 反抗の時代である。商業主義がとても敵視されている時代であった。
 この時代、若者によって明確な敵とされていたのは、国家権力と大企業である。両者は結託しているとみなされていた。(まあ、してるとおもいますけど)。
 資本主義国家は、人民の敵であった。大企業による利益搾取により、一部の金持ちだけが豊かな生活を送り、多くの一般人民はまっとうな報酬を得られず、苦しんでいると考えていた。もともと19世紀ヨーロッパで考えられた社会モデルである。それによって20世紀日本社会をとらえようとしていた。1970年代はぎりぎりそれができた最後の時代だったのだ。
 大企業は明確な敵であり、コマーシャリズムも敵であった。
 歌手にとって、むずかしいところである。
 レコードを出したなら、多くの人に聞いて欲しいとおもうのはアーチストとして当然だろう。資本主義ベースや、商業主義ということとはべつに、出したレコードが売れないと、どうにもならない。自分の声を伝えたいだけなら全国を回ればいいわけだし、レコードを出す必要はない。出したかぎりはより多くの人に届けないと意味がない。売ろうとするのは当然である。
 しかし、当時の若者は、これに異議を唱えたのである。
 レコードを出すのはべつにいい。その内容によって評価する。体制に反対し、若者の気分を歌ってくれれば熱心に支持をする。
 しかし、たくさん売れるのは、認めない。
 テレビに出て歌うのも認めない。
それは資本主義への加担であり、商業主義に走ったことになる。
 そうなった歌手は、若者のサイドから、搾取者サイドに寝返ったとみなしていい。
 そう考えていた。
 文章にすると、ずいぶん馬鹿馬鹿しくおもえるが、しかし当時は正しいことをしているとおもっていた。純粋だった。もっと大事なことを言えば、みんな貧乏だったのだ。小さな反抗から、社会を変えられると信じていた。

  いま大人の視点からから振り返れば、この「反・商業主義」は若くて貧乏なゆえの〝嫉妬〟に根ざしているのがわかる。売れることは純粋に羨ましかったのだ。
 でも、あれは〝嫉妬〟だった、だけで片付けてしまうわけにはいかない。そう言ってしまうと当時の空気がわからなくなる。
 大人の世界とはまったく違う若者の世界がある、とみんな信じようとしていた。そういう世界を明確にしようと躍起になっていた。
 それは若者のエリアができあがったのが、(当時は)最近だったからだ。60年代に入ってから意識されるようになった。まだ日が浅い。そのエリアをきちんと確保するためには、境界線を明確にしないといけない。大人と若者は別のものだと示されなければいけない。必要以上に違いを主張していた。
 その後、そのエリア区分は商業主義によって明確にカテゴライズされ、若者は若者だと主張する必要はなくなった。若者はこういうスタイルをして、こういう生活を送ったほうがいいです、と社会が丁寧に案内しはじめてくれたからだ。1980年代は、そういう高度に成長した商業主義によって、若者向けの快楽が提供されるようになった。そのまま現在まで続いている。
 だから、若者とは若い大人ではなく若者そのものであると過剰に主張する、この時代の空気はわかりにくいとおもう。これはこれで、社会をよくしようとおもっていたのである。
 社会をよくしようとおもって、売れたフォーク歌手に対して、裏切り者のレッテルを貼っていたのだ。書いてみると、たしかにめちゃくちゃである。

 またこのころ、1960年代後半から、いまでいう環境問題に関心が集まりはじめていた。公害が問題になり、また食品添加物が取り沙汰されていた。チクロが入っているものは身体に悪いと、意味がわからないままに友達と騒いでいた。うちでは、なぜか洗剤を使うと身体に悪いという情報が信じられ、いちじ食器類を洗うのにまったく洗剤が使われてない時期があった。何か工夫をするわけでもなく、ただ水で洗うだけである。油類が落ちずに、いつも何となくぬめりの残っている食器を使い続けていた。1969年か1970年ごろだったとおもう。いつの間にか元通りに洗剤を使うようにはなったのだが、あのころにはそういう不思議な空気があった。
 公害問題がわかりやすかった。周辺環境に配慮せずに、企業が利益追求のために有毒物質を排出していた。それによっていろんな人の人生を奪っていった。わかりやすく大企業が敵であり、利潤追求が敵であり、商業主義が悪である。
 多くの利益のためには小さい不利益はしかたがない、という大企業的商業主義には、みんな反感を覚えていた。
 それがフォークソングの世界にも反映されていた。
 利益主義には気をつけろ、ということだ。
 社会問題に敏感な若者なら、商業主義的なものには必ず反対した。

 売れたフォークシンガーは、コンサートで「帰れコール」を浴びた。
 当時は複数のフォークシンガーが登場するフォークソングコンサートがよく開かれていた。音楽フェスのはしりでもある「中津川フォークジャンボリー」が有名である。(正式名称は「全日本フォークジャンボリー」、岐阜県の中津川で開かれていた)。
 中津川のフォークジャンボリーは1969年から三年連続開催された。(第一回のジャンボリーはアメリカでウッドストックコンサートより早く、その六日前に開かれた)初年は2000人ほどの観客だったが、三年目にはその十倍の観客が集まった。
 その三年目の1971年のフォークジャンボリーが、問題のというか、伝説のというか、語り継がれるコンサートになる。
 とても荒れたコンサートだった。伝説のコンサートであるが、さまざまな資料や証言を読んだいまの私は、正直なところこのコンサートに行きたいとはおもわない。そういうイベントである。
 とにかく「帰れコール」が連呼されたコンサートだったらしい。
 その気分のもとは、おれたちのコンサートではなくなっている、というものだった。
 歌い手と聞き手がとても身近に感じられ、全体として一体感のあるもの、それがフォークコンサート、おれたちのコンサート、というのが当時の若者の感覚である。反商業主義感覚だ。
 しかし、このフォークジャンボリーではその部分が稀薄だった。規模が大きくなったのだから仕方がない。そこを〝商業主義的である〟と怒ったのだ。おれたちのコンサートが金儲けのコンサートにされてしまっている。許さない、という気分が「帰れコール」の連呼につながったようだ。
 現場にいたなぎら健壱によると、帰れコールを受けなかったのは、岡林信康と加川良と三上寛だけだったそうだ。『日本フォーク私的大全』によるとこうである。
「観客は異様な雰囲気の中にあり、メインステージではほとんどのシンガーが「帰れ」コールの声を浴びていた。そうすることで観衆はジャンボリーに参加をしていたし、何かに酔っていたとは想うが、いささかそれは度を越していた。しかし加川良が歌い出すと、それがピタッとやみ大歓声に変わった」
「結局「帰れ」コールが乱れ飛ぶ中、観客に名指しで「出て来い!」といわれたのは、岡林信康と、その時やはり衝撃的なステージを見せた三上寛、そして加川良、この三人だけであったといってもいいだろう(しかし「出て来い!」といわれはしたが、ヤジがなかったわけではない)」
 殺伐とした空気が感じられる。
 若者にとって、商業主義的ではないと認められるのは、この三人だけだったのだ。

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1970年代の見張り塔からずっと

堀井憲一郎

高度経済成長が終わりを迎えた1970年代、若者文化もまた曲がり角に差し掛かろうとしていた。いまのカルチャーはどこまで行ってもこの曲がり角の先にある。日本人はこの曲がり角をいかにして迎え、そして無事に曲がることができたのか? 現代日本を...もっと読む

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