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「おい、その顔はなんなんだ!」
上司が声を荒らげて、金田の顔を指さす。翌朝起きた時は、自分でも驚いた。目の周りや、口の端が真っ黒になっていたのだ。土日を挟み、週が明けてもアザは引かず、仕方なしにそのまま出勤したのだが、案の定、上司に見とがめられた。
好きでこうなったわけではないが、こんな顔では、外回りに出ることもできない。営業なのに外出できないのだから、役立たず以外の何物でもない。上司の怒りももっともではあった。
「申し訳ありません」
「おい、今度は何だ。ケンカか? いい歳こいて、何をやっているんだ!」
大きな声を聞くと、心が萎縮する。口の中が渇いて、体が震えて、思ったことを思ったように伝えることができない。今まではそうだった。
「違います」
「じゃあなんなんだ! 言い訳があるなら言ってみろ!」
「先日、痴漢に間違われたことがありましたが」
「ああ、ああ。あったな! こっちがどれほど迷惑したと思ってんだ!」
「その時の真犯人が、先週末にも痴漢行為をはたらいておりまして」
「はあ?」
「止(や)めるように制したところ、殴られてこうなりました」
「噓つけ、そんな偶然があるか!」
憤りを増す上司に向かって、後輩の伊藤が、「その話、マジっすよ」とフォローを入れた。フォローと言うよりは、騒ぎに燃料を投下して面白がっているような感じだ。
「なにがマジだ」
「いや、あの、金田さんと俺、帰る方向一緒なんで、たまたまその電車に乗ってたんですよ、俺」
「なんだって? ほんとか」
「それから、今朝、金田さんを痴漢だと間違えた子の親御さんからも、謝罪したいと連絡がありました。警察から勤務先を聞いたとおっしゃって」
いつもは目も合わせてくれない女性社員が、フォローに加わってくれた。事実だからしょうがない、といった顔つきではあるが。
「で、その痴漢はどうした」
「取り押さえて、警察に突き出しました」
上司が、金田から視線を外し、後ろを見る。「マジっす」という、伊藤の声が聞こえた。
「ナイフとか出してヤバかったですよ。ネットでニュースになってましたけど、超アブないやつで」
「そんなやつ、金田じゃどうこうできないだろ」
「いやでも、金田さん、ナイフ持った腕摑みに行って、すごかったですよ。取り押さえたのは、駅員さんとか周りの人とか、寄ってたかってって感じでしたけど」
「そんなアブねえことして、刺されて会社に来られなくなったらどうすんだ? プライオリティってもんを考えろよバカ野郎。痴漢なんてな、ケーサツに任せときゃいいだろ、ケーサツによ。赤の他人なんかどうでもいいだろうが」
「あの」
金田は、大きく息を吸い込み、腹に力を入れた。