30歳近くで小説につかまれる
高橋源一郎(以下、高橋) 一つ言うと、日本文学のなかで一番は詩と批評ですね。小林秀雄とか、もっと若いと吉本隆明とか江藤淳とか、そういう人たちの詩や評論を読むことの方が、意味があることだった。
小説、つまり純文学というのは、当時、どちらかというとエンターテイメントみたいな感じがあったと思うんです。
どういうことかというと、僕のなかでは、詩を書くとか映画を作るというなら話はわかるけど、小説を書くとは思っていなかった。僕の周りでそういう活動をしてきた同じ世代も、まず詩を書く、批評を書く。それで小説を書こうという人はあまりいなかった。逆に変わり者みたいな感じ。それが60年代の終わりぐらいです。
それから僕は肉体労働をやって、ふと気がついたら30歳近くになっているんですね。「あ、やばい」と。
でもね、これはよく言うんですけど、僕、19歳から鎌倉で肉体労働を始めて、31歳までやっているんですけど、すごく楽しくてですね、死ぬまでやっていようと思ったんですよ、本当に。でも、20代後半にぎっくり腰になって、やっぱり肉体は弱るものだとわかった。
そのときに、自分は何をやろうと思っていたんだっけ、と。そこで思ったのは、書きたい。じゃあ、何を書くか。最初に思ったのは詩だったんですね。でも、自分は詩が書けない。
では批評家はどうかと思って、批評は20歳ぐらいで書いていて。でもそのとき、批評も魅力がなくて。いまからだと理由を言えるのですが、当時は30歳近くなって「これから自分が死ぬまでどうする?」と考えたとき、表現としてかつてはそんなに大したものと思っていなかった小説がせり上がってきた。
小説につかまれた。それは誰の、どんな小説かっていうのは、いまではちょっとよくわからないんですけど、「あ、小説書きたいな」と思ったのがたぶん78年ぐらいですね。
つまり、12年前に最高の表現だと思っていたものを書けばいい。でも、それは小説じゃなかったんです。だから、詩や映画で実現されていたものを小説にすればいいんじゃないかと思ったのが、たぶん78年の終わりか79年の初め。
78年ぐらいから、一つ小説を書いている。これは人に見せられないような悲惨な、とりあえず長編を書いてみたというもの。これを群像新人長編小説賞に応募するために、横浜中央郵便局に行った。600枚。
出した瞬間に恥ずかしさがこみ上げて、「ひどいの書いたなあ」と。青春政治小説です。柴田翔の劣化版みたいなのを書いて、もういたたまれなくなった。
つまり、自分のなかにあった表現の基準は、詩だったり、映画だったりしたわけだけれども、あれと全然違うじゃないかと、そのときに思った。
それで群像新人文学賞で81年に落ちる。そのときのタイトルは「すばらしい日本の戦争」で、最終的には『ジョン・レノン対火星人』になる作品のもとになるものを79年に書いているんです。
それが非常にゴダールに似ている。断片的で、引用が多くて、詩的な言葉に満ちていて、こういうのを書いている奴は誰もいないだろうと思って、最初は書き出したんです。
ところが、『群像』に出そうと思ってたまたま79年の6月号をめくったら、その年に群像新人文学賞をとった村上春樹さんの『風の歌を聴け』があって、これが断片的な小説だったんですね。
一人でやっていると思ったら、断片的に詩的な言葉を使うことをやっている人がいたというのがすごいショックでした。しかも、僕はフランスから攻めていったときに、向こうはアメリカから攻めてきた(笑)。
僕は『風の歌を聴け』を発売日に買いに行ったんです。その時点で、あの小説を1ページしか読んでいないんですから。これは僕が先にやる予定だったのに、と(笑)。
しかも、僕が書いていた小説はゴダール的にごちゃごちゃになっていたわけだけれども、向こうは同じやり方でもう少し違ってエレガントだったんで、かなり衝撃的で、3日ぐらい立ち直れなかったんです。
でも気を取り直して一つ書いて、それはあまり上手くいかなかった。二つ目に書いたのが『ジョン・レノン対火星人』なんですけれども。ですから、当時は誰も思ってくれませんでしたが、ほとんどゴダールの映画の小説版でした。そういう意味では、直接的な影響は60年代の映画とカルチャーということだと思います。
『ジョン・レノン対火星人』 (角川書店、1983年/講談社文芸文庫、2004年)
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