村上春樹の読み方『風の歌を聴け』後編

新作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文藝春秋)が話題の村上春樹を、finalventさんが初期作から読み返す試み。『風の歌を聴け』(講談社文庫)前編中編と本書の読み方と、そこに描かれたものを提示して来ました。後編では、村上春樹はこの本でなにを訴えたかったのかを読み解きます。読み終わればきっと「風の歌」が聴こえてくるはずです。

『風の歌を聴け』が入り組んだ構造になった理由


風の歌を聴け 講談社文庫

 では主人公は具体的にどのように「愛おしく思う」気持ちを回復できたのだろうか。鼠の恋人との最後に抱き合うシーンにその意味が投げかけられている。

「私とセックスしたい?」
「うん。」
「御免なさい。今日は駄目なの。」
僕は彼女を抱いたまま黙って肯いた。
「手術したばかりなのよ。」
「子供?」
「そう」


 親友の恋人と、たとえその関係がうまく行かなかったとして、セックスしたいと思うだろうか。思わない、というのではない。表現の仕方を間違えれば、このシーンは醜悪な関係を描いただけになる。

 主人公はここで、彼女が堕胎手術をしたことをあらかじめ知っているし、セックスを実行する意思はない。その上で、彼女に対して十分に性的な魅力があり、自分もその魅力に答えるという意味合いで「セックスしたい」と述べているにすぎない。そのことで、彼女を救い、また自分を救うことになる。『風の歌を聴け』が入り組んだ仕掛けになっているのは、この微妙な意味合いを表現したかったからだ。

 さらにこのシーンには、もう一段深い苦悩が暗示されている。主人公が親友の恋人の堕胎手術を知っていたというだけではなく、堕胎した女性が自死に至ることを恐れていることだ。そういう主人公の思いが成立したのはなぜか。主人公が抱えた苦悩は、恋人の自死だけではおそらくなかった。この堕胎を開示するシーンで、鼠の恋人は主人公の恋人のことを問う。

 僕は手のひらで彼女の髪を撫でた。
「好きな気になれそうな気がしたの。ほんの一瞬だけどね。……誰かを好きになったことある?」
「ああ」
「彼女の顔を覚えている?」
 僕は三人の女の子の顔を思い出そうとしてみたが、不思議なことに誰一人としてはっきり思い出すことができなかった。


 主人公は、自殺した恋人が好きだったと語る。愛していた。だが会話の意味はそこに留まらない。自殺する前の恋人と主人公の会話の場面に奇妙な陰影を投げかけている。主人公は、恋人が自死する前にこう会話を交わしていたことを思い出す。

「ねえ、私を愛している?」
「もちろん。」
「結婚したい?」
「今、すぐに?」
「いつか……もっと先によ。」
「もちろん結婚したい。」
「でも私が訊ねるまでそんなこと一言だって言わなかったわ。」
「言い忘れていたんだ。」
「……子供は何人欲しい?」
「3人。」
「男? 女?」
「女が2人で男が1人。」
彼女はコーヒーで口の中のパンを嚥み下してからじっと僕の顔を見た。
「嘘つき!」

 と彼女は言った。
 しかし彼女は間違っている。僕はひとつしか嘘をつかなかった。


 誰の恋愛にもありそうな軽妙な会話であり、嘘もたわいないものに思える。だがこのシーンは、鼠の恋人と最後に会う前の断章として置かれ、文脈を形成している。さらに、焦点は「何が嘘なのか」にある。どこが、一つの嘘なのか。

村上春樹がディスクジョッキーの発言に込めた思い

 鼠の恋人との対話で主人公は、死なれた自身の恋人を愛していたことを告げた。だから「私を愛している?」という問いの答えに嘘はなかった。では嘘は「結婚したい?」という問いの答えだっただろうか。そうであったかもしれない。しかしこの会話が、二人が産むかもしれない子供にまで問われている点に注意したい。

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