俺はそこで首をかしげた。……それなら、持っていけばいいはずではないのか。何も燃やす必要はない。堀之内氏の話によれば、この小屋には、持っていけないほど大きな物は置いてなかったはずである。それ以前に。
「この小屋には特に、重要そうなものはなかった、という話でしたが」
「そうです。ですから、わたしが最初に考えた通りなのだと分かりました」
海月は瓦礫に視線を落としたまま動かない。そういえば、海月は捜査本部が立った直後から、何かを言おうとしていた。
「海月さん、最初に考えた通り、っていうのは……」
「決定的におかしな点がありました」海月は言った。普段のおっとりした調子が消えていた。「最初の報告の時、誰も疑問に思わなかったのでしょうか? わたし、不思議でなりません」
「何が……ですか?」
俺は不安を感じた。俺も特に何も思わなかったのだ。それがすでに間違いだというのだろうか。
だが海月は、容赦なく言った。
「設楽さんも、おかしいと思わなかったのですか? 一月三十一日午後十一時頃、保谷では、ビニールハウスが燃えているのを近隣住民が発見しているのです。なのにこちらでは、翌朝に物置小屋が焼失していたのを住民が発見したのです」
海月は右手を差し出し、ぐるりと回ってみせる。「設楽さん、周りを見てください。これだけ建て込んでいる場所なのですよ? 小屋が丸々焼失したらかなり大きな、明るい炎が出るはずではないですか。炎の明かりだけではありません。煙も音も臭いも出たはずなのに、どうして誰も、燃えている途中で通報しなかったのでしょうか? コンクリートブロックの高さはせいぜい一・五メートルです。周囲の民家から火が見えないはずがないのに、どうして誰も、この小屋が燃えているところを見ていないのですか? ここまで完全に燃え尽きるまでには、相当な時間がかかったはずなのに」
「それは……」俺は周囲を見回し、考えを巡らせる。確かに、それはおかしい。路地一本を挟んで民家があるのだ。なぜ目撃証言がないのだ?
「犯行が深夜だったので、近くの住民は寝ていたし、誰も通りかからなかった、とか……」
「そうかもしれません。一番人通りの少ない午前三時頃でしたら、もしかしたら見つからないかもしれません」海月は手を下ろし、俺に向き直った。風が吹き、彼女の髪をなびかせる。「ですが、保谷の事件は遅くとも午後十一時には発生しています。そうだとするなら、犯人は午後十一時に保谷で犯行をし、なぜか四時間ほど待ってからあらためてここに忍び込み、また火をつけた、ということになります。おかしいとは思いませんか。どうして続けてしなかったのでしょうか? 逆に、ここでの犯行のために見つかりにくい時間帯を選んだというなら、どうして保谷の犯行は十一時にしたのでしょう。まだ人通りがある時間帯です」
俺は必死で考えた。いつもとまるで違う海月のはきはきした口調が、俺の鈍感さを責めているように聞こえてきたのだ。
準備に時間がかかった? いや、そのはずはない。だいたい、犯人が思いつきやその場のノリで動いているなら、保谷で火をつけてから、一旦四時間も間をおいたら「熱」が冷めるはずだ。それなのに、またあらためて犯行に出るだろうか。なぜ四時間も空白ができたのだろう。この間の犯人の心理の、想像がつかない。
「途中で何か不都合があって、四時間後になってしまった……」俺は言いながら考える。そんな事情があるだろうか? 保谷からここまで移動するだけの間に。慎重に計画を練ってきた犯人なら、そういう予想外の事情が起こらない日を選んでもいるはずだ。
「犯人は、この小屋が燃えている途中で誰かに見られてしまってはいけなかったのです。そのために何か細工をして、見られないようにした……」海月はすう、と俺の脇を抜け、瓦礫の山の傍らにしゃがみこんだ。「そうだとするなら、犯行時刻を午前三時頃にしたくらいでは、誰かに見られる可能性は排除しきれるものではありません。犯人が使ったのは、もっと確実な細工だったのです」
「細工……?」
この大きさの小屋が燃えるのを見つからないような細工、だというのか。そんなものがあるのだろうか。
「簡単ですよ。地面を見てください」
俺は海月に言われ、彼女が指し示している地面を見た。湿った土に、穴が開いていた。ちょうど、何かを突き刺したような。
俺は立ち上がり、瓦礫の周囲を回った。土が動いて消えているものが多かったが、瓦礫の周囲を囲うように穴が残っている。
「確かに、跡があります」俺は瓦礫の周囲を一周して海月の脇に戻った。「何か、支柱を立てた跡です。つまり犯人は、難燃性の……衝立のような物を周囲に立てて、火を隠したんだ」
「……そうです。簡単な細工です。ですが」海月は立ち上がった。「重要なのはその手段ではありません。犯人が、そんな細工をしてまで火を見られたくなかった、という点なのです」
俺は考える。なぜだ? つけるだけつけて逃げてしまえば、火を見られてもいいはずではないか。見られて困るということは、つまり。
「……途中で消されたら困る、ということですか?」
「おそらくは」海月は頷いた。「犯人はこの小屋に限っては、最後までちゃんと燃えてほしかったのです」
俺は瓦礫を見る。そういえば、ここの瓦礫はまんべんなく燃えて、ほとんどが黒焦げになっている。普通なら、火をつけたのと反対の側まで燃え尽きる前に小屋が倒壊し、燃えていない部分が残るはずだ。おそらく犯人は念入りに、小屋の数ヶ所に火をつけたのだろう。
「つまり、この小屋を消したい理由が何かあったと? ですが、小屋の中には何もなかったはず……」俺は瓦礫から突き出ている屋根の燃えかすを掴んだ。「小屋本体だって、これまでずっとひと目にさらされてたんです。今更、こんな細工をしてまで燃やし尽くす必要があるとは思えませんが」
「わたしも、そう思います」海月はそう言うと、瓦礫の中に踏み出し、えい、と言って屋根の破片を持ち上げ、横にどかした。「では、小屋ではなくて、その下というのはどうでしょうか?」
「下……地中だと?」
「たぶん、そうなのです。犯人は、小屋をどかしたかったか、床板の下を掘るため、床板に穴を開けて……掘り出した痕跡を隠したかったのではないでしょうか」
「なるほど……」
俺は海月を見ながら、半ば呆然としていた。ダッフルコートを着て高校生のように見える小さな海月警部は、別人のような厳しい顔で瓦礫をどかす作業をしている。
……それにしても、俺は。
俺は考えた。……一体俺は、この数分の間に、彼女の指摘に何度頷かされた?
今の海月は、それまでの印象と全く違っていた。もちろんこれまでだって、彼女の頭そのものが悪いと思っていたわけではない。だが頭が悪くなくとも「抜けている」人間というのはいる。実際、彼女はとろくて方向音痴でよく分からないたとえ話はするし、受け答えは時折ずれているし、その点はその通りなのだが。
……だが、今のこの人は。
これまでが演技だったのだろうか? だが、それで木から落ちはすまいし、そもそも、そんな演技をする必要がどこにあったのだろう。要するに、俺の方が彼女をちゃんと見ていなかったということではないのか。
俺はこれまでのことを思い出した。海月は最初の捜査会議の時点で、すでにさっきの指摘をしようとしていた。あの時、喋らせなかったのは俺だ。それに、考えてみればこれまでのところ、海月には不手際はあっても怠慢はなかったのだ。少年にすっ転ばされたり、柿の木から降りられなくなったとはいえ、女一人で四人の少年に対し見て見ぬふりをせずつっかかっていったことも、高所恐怖症なのに火元を確認しようと木登りまでしたことも事実なのだ。
俺たちはプロだ。頑張ったのだからミスをしても許してあげましょう、などという甘い話にはならない。だが。
海月は眼鏡をかけ直すと、煤でコートが汚れるのも構わず、大きな屋根の破片を抱き上げた。思ったより重かったのか、抱えたままふらついている。「というわけで、えい! ……これを、どかしてみます!」
「ちょ、ちょっと」俺は慌てて瓦礫をまたぎ、海月の隣に立った。「俺がやりますそういうのは」
「でも設楽さんは、怪我をしています」
「片手でもやれますから。それよりその、せめてその高そうなコート、脱いでください」
海月はすでに袖といい胸元といい、煤だらけにしている。俺は自分のコートとジャケットを急いで脱ぎ捨て、左手の指先と口を使って右腕の袖をまくった。冷たい風が吹いていたはずだが、体が火照っていて何も感じなかった。思いきり現場を荒らすことになるが、この状況では仕方がないだろう。
俺は右手と足先を使って瓦礫を立て、抱えて持ち上げた。シャツが真っ黒になるが、そんなものは洗えばいい。海月の方はすでに汚れているからか、構わずにコートを着たまま動いている。とりあえず、どこでもいいから瓦礫をどかし、下の地面を見てみたかった。掘った跡が残っていれば、彼女の推理の裏付けになる。事件の真相が……誰もが見向きもしなかった真相が、この下に眠っているかもしれないのだ。
片手で持ち上げたら落ちそうになった瓦礫を海月が支えてくれた。「設楽さん、片手では無理です」
「あなた一人にやらせてただ見てるのは、もっと無理です」
二人で瓦礫を持ち、立入禁止のテープのあるあたりまで移動する。せえの、と言って降ろし、またえっちらおっちらと瓦礫をまたいで戻り、大きなものから順に引っぱり上げる。それを繰り返した。真冬に上着なしでも、寒くないどころか汗が出てくる。手もシャツもズボンも煤で真っ黒になったが、どうでもよかった。
小さい体で一所懸命に瓦礫を持ち上げようとしている海月に手を貸したところで、俺は急に、彼女に謝りたくなった。
「……すいません」
海月は瓦礫を抱え、おや、という顔で俺を見た。
俺は言った。「すいません。これまで俺は、あなたのことを」
「何を考えているか分からない、と思っていたのでしょう」海月は微笑んだ。
「……はい」ついでに、とろくて弱くて非常識で自分の力量を知らない間抜けだと……たぶん、どこかで思っていた。だが、さっきの話を聞く限りでは、間抜けは俺の方だ。
「いいですよ。わたし、知っていました」海月は抱えていた瓦礫を置いてくると、俺の横に来て、ふう、と額を拭った。額に煤で黒い線ができた。「それなのに、わたしの話にちゃんとつきあってくれている、ということも、知っていました」
海月はかがみこんで、足元の板きれを掴んだ。「あんなに怒られた後です。普通の方なら、わたしの推理なんかそもそも、きちんと聞こうとしてくれないはずですし、証拠もないのに、こんな作業を手伝ってくれません。わたし、パートナーが設楽さんでよかったと思っています」
「光栄です」なんだか照れたのでそれしか言えない。引っぱっている瓦礫に視線を落とした。「こいつ、こっち側に押してどかしちゃいましょう」
「はい」
せえの、とかけ声を合わせ、二人で瓦礫の山を押す。どかした所に地面が見えた。小屋の床の下にあった地面だ。俺はかがみこんだ。
「どうですか?」海月が上から覗き込んでくる。
「周囲と比べて柔らかい気がしますが、はっきりとは……いや」俺は土の上を手で撫でた。それから、地面を塞いでいる瓦礫一つ、右手で押してどかした。
どかした後に出てきた地面には、はっきりとした段差ができていた。俺と海月の立つ小屋の中心部分だけ、一、二センチほど低くなっているのだ。段差に指を這わせる。段差の上の部分の土は、足元の土よりずっと硬かった。
「警部、これは……」
海月を見上げると、彼女も頷いた。「……正解でしたね。掘った跡があります」
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。