じいちゃんが笑みを浮かべながら、少し遠くなった耳を金田に向けた。さあしゃべれ、と言われても、帰ってきたばかりで心の準備は何もできていない。
「あの、親父は?」
「今日は帰ってこん。誘拐事件があったっちゅうてな。署に缶詰めだわ」
「そんなに大変な事件なの?」
「まあ、広域捜査になるからの。やれ管轄が、とか大変みたいだわ」
金田家は、父が地元の警察署の副署長で、母が元婦警。じいちゃんも元刑事で、兄は交通機動隊の白バイ隊員という、筋金入りの警察一家だ。金田も、幼い頃から徹底的に「悪を許すまじ」という教育を受けて育ってきた。なにしろ、名前も「正義」とつけられたのだ。幼い頃から叩きこまれた正義の心は、体の奥底にしっかりと根を張っている。
金田自身も、大学卒業後は警察官になろうと思っていた。だが、大人になるにつれ、警察の限界も見えてきた。正義の味方であるはずの警察官だが、どうしても制約が付きまとうのだ。
警察官は、組織で動かなければいけないし、個人の感情で行動することは許されない。重大犯罪の解決のために、泣く泣く捜査を諦めなければならない軽犯罪もある。悪事を働いているのは明確なのに、法のスキマを突かれて、手の出しようがないこともある。
警察官として、正義の心を持つゆえの苦悩があることを、金田は家族を通していつも目の当たりにしてきた。現実は、勧善懲悪や正義の味方を受け入れてくれないのだ。
だとしたら、組織や法にとらわれない正義の味方になろう、と金田は考えた。法に縛られない正義の味方。それこそが「パラライザー金田」である。金田は家族とは違う正義の道を進むべく、一般企業に就職し、より犯罪の多い都会に引っ越すことを決めた。仕事をする傍ら、正義の味方をボランティアでやるつもりだったのだ。家を出る日、見送る家族に向かって、「会社員になろうとも、正義の心は変わらない」と宣言したのは、決して遠い昔の記憶ではない。
それだけに、自分が犯罪者扱いされてしまった情けなさを、じいちゃんにどう伝えればいいのかわからなかった。
「おなごにでもフラれたんか」
「それもある」
「仕事がうまくいかんのか」
「まあ、それもある」
「なんじゃ、はっきりせんのう」
何がこんなにも自分を絶望させるのだろう。今日の出来事を、朝からゆっくりと思い返した。電車の中の光景がフラッシュバックする。女子高生の蔑(さげす)むような目、真犯人の嘲りに満ちた目。
「怖かったんだ」
言った瞬間、両目から驚くほどの量の涙が零れ落ちた。畳にあたると、ぼたっ、と音が出るほどの大粒の涙だ。自分が泣いているのだとわかると、今度は肩が震えた。胸のあたりが痙攣(けいれん)して、上手く声が出ない。
「怖かった?」
「悪いやつがいたのに、怖くて、何もできなかった」
「そらおまえ、誰だって悪いやつは怖かろうよ」
違う、そんなことない、と金田は首を振った。
「俺に、そいつをねじ伏せる力があったら、止めることができたんだ。でも、俺はビビって、迷って、結果的には見て見ぬふりをした。挙句の果てに、犯罪者にされるところだった」
「力、のう」
「俺は、超カッコ悪くて、ダサかったんだ」
こんなはずじゃなかった、と、金田は下を向いて激しく肩を震わせた。突然、抽象的な話をしながら泣きだした孫を見て困惑したのだろう。じいちゃんは、ううむ、と大げさに唸り、残りの茶をすすって、突然立ち上がった。
「よし、マサヨシ、立て。行くぞ」
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