でこぼこした、へんてこなへや。
ぜんぶまっしろ。
——あけて。
どん、とドアをたたくけれど、あかない。
——ねえ、あけて!
へやのなかにひとりぼっちで、さみしい。
——ここから、だして!
ここにいなきゃいけないのは、ちょうのうりょくがあるからって、おじいさんはいっていた。
だけど、よくわからない。
ちょうのうりょくがあったら、ドアもバーンてやったり、とうめいにんげんになったり、
ワープしたりして、そとにでられるのに。
ほんとに、ちょうのうりょくなんか、あるのかな。
なんにもできない。
どこにもいけない。
ねえ、ママはどこ?
ちょうのうりょくなんて、やくにたたない。
パラライザー金田
1
朝起きて、金田正義(まさよし)がまず初めにすることは決まっている。窓から差し込む朝の光の中、枕元に置かれた粘着ローラーを、まだ温もりの残る枕とシーツに這わせることだ。腕を伸ばし、手前に引く、という動きを二往復もすると、手がわなわなと震え出す。
「今日はヤバい」
金田の口から、深いため息が漏れた。ローラーをコロコロ転がすたびに、頼りなくやせ細った髪の毛が、何本も絡みついてくる。いつもより多い気がするが、数えるのは恐ろしい。
布団を畳むのもそこそこに、洗面所に急ぐ。歯ブラシよりも、ヘアブラシが先だ。二、三度ブラッシングしては、新たな抜け毛が絡んでいないか観察する。一本でも抜け毛を見ると、胃がめくれるような気分になるが、どうしても確認せずにはいられない。
鏡に映った自分の姿を見る。のっぺりとした体形に、イケメンでもブサイクでもない顔がのっかっている。イケているかいないかで言えば、ぎりぎりイケていない。顔は客観的に見て、それほど悪くはないと思うのだが、いかんせん体が小さく華奢で、男らしくないのだ。
素材が今一つの金田が「イケている側」に行くには、オシャレが欠かせない。服、アクセサリといった留意点は多々あるが、最大の要素はヘアスタイルだ。髪型さえ決まっていれば、服装が多少ぶっ飛んでいても、個性的と評価される。つまり、髪型こそがファッションの最重要ポイントなのである。
というのが、金田の勝手な持論だ。だが、無茶苦茶な理屈であると自覚していても、朝の洗面台の前では心を強く縛る。毛がスカスカになって、頭皮がスケスケになるのを想像すると、眩暈(めまい)がした。まだ、二十七歳なのに。奥さんはおろか、彼女もいないのに。
ハゲる。人生が終わる。
薄毛でもさわやかに生きている方々には甚(はなは)だ失礼だが、金田はどうしてもそう思ってしまう。ハゲた自分を受け入れることができないのだ。
——何をしても、どうせ「でもあいつハゲてんじゃん」で終わる。
——どんなにカッコよくキメても、髪が薄いというだけでキマらない。
——つまり、カッコ悪い。
——正義の味方が、カッコ悪くてどうする。
鏡の中で動く自分を見ながら、乱れた髪をどうしようか思い悩む。整髪料を使わなければ、髪型が決まらない。だが、整髪料は頭皮への刺激が心配だ。つけるべきか、避けるべきか。悩むほどにストレスが溜まり、ストレスが薄毛を進行させるかもしれないと思うと、また悩ましい。悩みたくないのに、悩むしかない。ここ数年は、毎朝こうだ。
2
いつもと同じ時間に駅に着くと、すぐに電車がやって来た。ドアが開くと、後ろから一気に圧力が掛かって、車内に押し込まれる。右に左にと流された挙句、あっという間に身動きが取れなくなった。ひどい区間では、乗車率が二百パーセント近くになる混雑路線だ。すし詰めとはよく言うが、すしだってこんなに詰め込まれたら、きっとつぶれる。
駅員が必死の形相で人を押し込み、ようやくドアが閉まった。気がつくと、目の前には艶やかな黒髪があった。どうやら、もみくちゃになった結果、女子高生の背後についてしまったようだった。
顎の高さほどにある彼女の頭頂部は、黒々とした毛が、きれいにつむじを巻いていた。金田が、うらやましい、と、ぼんやり眺めていると、彼女がちらちらと振り返るような仕草を見せた。熱い視線に感づかれたのかと、金田はごまかすように吊革を摑んだ。
だが、様子がおかしい、と気づくのに、さほど時間はかからなかった。女子高生の体が、不規則に揺れ動いている。身をよじっているようだ。
「やめてください」
声にならないくらい、かすかな声が聞こえた。その声に気がついた人間は、周囲にあまりいなかったかもしれない。金田にも、はっきり聞こえたわけではなかった。声の出所を探すと、後ろを振り返った女子高生と目が合った。眉下で切りそろえた前髪から覗く目は、怒っているようにも、怯えているようにも見えた。
まさかと思いながら、ゆっくりと視線を落とす。自分のすぐ前にある彼女の制服のスカートが少しめくれ上がっていて、人の手首が中に潜り込んでいた。
痴漢じゃないか、と思った瞬間、腸が煮えくり返った。己の性欲を満たさんと、幼気な女子の尻を触るなどとは不届き千万だ。犯人はすぐにわかった。金田の隣に立っている男だ。
おい貴様、と、正義の怒りを爆発させようと顔を上げると、痴漢男がぎろりと睨みつけてきた。小柄な金田と比べると、頭二つ分背が高い男である。体は筋肉の盛り上がりが丸わかりなほど屈強で、腕力で勝てる相手には思えなかった。男は、悪びれもせず金田に顔を近づけ、文句あるのか、と言わんばかりに威圧する。この痴漢野郎! その汚い手を離せ! そう言い放った後、自分に降りかかってくる運命を想像すると、金田は喉が詰まって声が出せなくなった。
——「超能力」を、使うしかないか。
ぐっと、体に力を込める。全身の毛が逆立つような感覚があり、力が徐々に指先へ収束していく。だが、ピリピリとした緊張が頭部に達した時、集中力が続かなくなった。
だめだ、と、金田は俯いた。脳裏には、鏡に映った今朝の自分が焼き付いている。何度集中しようとしても、再び体内の力を集めることはできなかった。
【次回「無敵の超能力とひきかえに、彼は髪を失った」は11月10日更新予定】
イラスト/平沢下戸