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最初の目的地は一月三十一日深夜から二月一日朝にかけて起こった二件の事件のうちの片方、中町小学校である。西東京署からはそう遠くないはずなのだが、海月はカーナビの指示に合わせて運転することもできないようで、俺が助手席から教えているにもかかわらず曲がる道を間違えたり反対方向に行ったりし、ついにはどんどん市外に出ていき、西東京署を出発した俺たちの車は四十分ほど走り回って停車した。停まったのは着いたからではなく目的地を見失ったからで、中町小学校までは、そこからさらに三十分走った。同じ市内なのに一時間十分かかったことになる。ガソリン代だって税金から払われているというのに。
東京の学校はどこでもそうだが、中町小学校は建て込んだ住宅地の路地の奥に、森の奥の桃源郷のごときひっそりとした様相で存在していた。敷地は広く、おそらくはこのあたりが本格的に開発されて建て込んでくる前からある古い学校なのだろう。裏門の横にある立派な樹(海月いわくクヌギらしい)の横には、「開校五十周年記念」と書かれた札がついていた。
海月に代わって俺が駐車場に車を入れ、車を降りて駆け寄ってきた初老の男性に挨拶をする。副校長の堀之内です、と名乗ったその人は、海月が出した名刺と本人を見比べ、「刑事さん……?」といぶかしげな顔をした。まあ、初めて見た人にとってはそうだろう。
「燃やされた小屋なんですが」現場を見たい、という海月に応じて裏庭の小屋に案内してくれる堀之内氏は、申し訳なさそうに首をひねった。「一応、入っちゃダメだよ、とは言っていますが、どうだか……」
小学校の敷地内をいつまでも警察官がうろうろしていては落ち着かない、ということもあり、こちらの現場には昨日からもう誰もいない。一応、立入禁止にはしてあるそうだが、事件直後の状態ではないかもしれなかった。
「まあ、小学生に『事件現場だけど覗くな』って言っても、無理ですよね」
俺が苦笑してそう言うと、堀之内氏も同じように苦笑した。「まあ、そういうわけで」
現場の小屋は裏庭の隅、コンクリートブロックで囲まれた敷地の角にあった。今は黒焦げの木材と割れたガラスの山になってしまっているが、残った瓦礫の形から見ても、天井や床などしっかり作ってあったようだ。
「三畳くらいでしょうか」立入禁止のテープをくぐって瓦礫の横に立ち、海月が言う。「この小屋、いつ頃できたのですか? 元は何に使っていたのですか?」
「建てたのは七、八年前です。自然学習の何かに使うつもりだったらしいのですが、すぐ物置になってしまいまして、今も半分、物置だったのですが」堀之内氏は遠慮したのか、テープの外に立って頭上を見上げた。「まあ、何にも使っていません。ただ、夏はこう、周りの樹が茂ってね。涼しいから、子供たちがいつも中で遊んでました」
副校長は手を上げて、頭上に伸びる枝を示す。周囲を囲む樹は大きく、一部の枝が焦げてはいるがおおむね無事だった。燃え移っていたら大損害になっていただろうから、これは幸運である。
周囲の樹は小屋に接するほどの距離にはなく、敷地を囲むコンクリートブロックまでも数メートルの距離がある。ブロック塀の向こうは細い路地になっているはずであり、そのため隣の民家もすぐ燃え移るような距離に迫っているわけではない。そう考えれば、小屋は類焼の危険のない場所に建っていたと言える。加えてコンクリートブロックのせいで、犯人は少しかがむだけで外からの視線を避けられただろうから、確かに犯行にはうってつけの条件を備えていたということになる。
「半分物置、とのことですが」海月は瓦礫の中にしゃがみ、何かを探そうというのか、うんしょ、と言って屋根の燃え残りをずらした。「中にあったのは何ですか?」
「はあ。たいしたものは。運動会で出す物ですとか、ライン引きの石灰ですとか」堀之内氏は瓦礫に視線を落とした。「今後はもう子供が増えることもないでしょうから、この小屋が必要になることもないでしょうね」
「高価な物はなかったのですか? あるいは、子供が何かを隠したり」
「まさか。そういうものは置きません。それに……」堀之内氏は目を細めた。「いつも誰かが出入りしていました。中でゲームをしたり、お喋りしたり、公認の共同秘密基地みたいな場所でしたから、私ならここに何かを隠したりはしないな」
変な表現だが、言わんとすることは分かる。
「では、外部の人間の溜まり場になっている、というようなことは」
「それもないはずです」堀之内氏は腰に手をあてて周囲を見回した。「時折見てますが、吸殻なんかが落ちていたことはありませんでしたし」
「そうですか。……難しいですねえ」海月は言いながら大きな瓦礫を押しのけようとし、重さに負けてよろめいた。何をやっているのだ。
しかし海月は瓦礫に視線を落としたまましばらく考え込み、それから堀之内氏を振り返った。「ありがとうございました。また帰る時に御挨拶させていただいてよろしいですか」
「ああ、ええ」堀之内氏も、仕事に戻らなければ、と思い出したらしい。腕時計を見た。「では、何かありましたら、私は今日は職員室の方におりますので」
堀之内氏は小走りで校舎に戻っていった。チャイムが鳴り、校庭の方からは笛の音と教師の声が聞こえてくる。
俺は立入禁止のテープをくぐり、海月の横に並んだ。「この物置がそんなに気になりますか?」
海月はしばらく視線を落として沈黙していた。
「警部」
「……やっぱり、下ですねえ」
「はい?」よく分からない。俺は腰に手をあてて海月に向き直った。「警部、そろそろちゃんと話してくれませんか。あなたは最初から何か変なことを言ってましたが……」
海月は俺をちらりと見ると、また瓦礫に視線を戻し、そうですねえ、と呟いた。「少し、説明が長くなるかもしれないのですが」
「はい」どうせ戦力外通告をされている。彼女の思いつきに長々とつきあっても損はないはずだった。「構いませんよ。どうぞ」
「ええと……たとえば、茶道に裏千家という流派がありますが、裏千家というのは」
「ちょっと待った」俺は右手を突き出して彼女を止めた。「それは、なしでお願いします」
「そうですか?」海月はこてん、と首をかしげた。「では、たとえば……Java Scriptという、オブジェクト指向」
「お待ちなさい」俺は大声で止めた。「たとえ話を使わずになんとかなりませんか」
「はあ」海月は珍種の動物でも見るように俺を観察する。「……とても分かりにくくなると思いますが、よろしいのですか?」
「いえ、あなたのたとえ話に比べれば、『羅生門』に対する『水戸黄門』くらい分かりやすいはずです」
「そうですか。黒澤映画はわたしも好きです。『東京物語』ですとか『麦秋』……」
どっちも小津安二郎だ。「とにかく、たとえ話は当面、凍結という方向で」
海月は調子を狂わされたらしく、ふむむ、と唸って眼鏡を外し、斜め下を見据えて目を細めた。
俺は微妙に違和感を覚えた。眼鏡を外して考え込んでいる海月は、纏っている空気がどことなく違っていた。もともと可愛らしい顔をしているところがさらに強調された感じではあるが、なんとなく厳しさのようなものが加わったようにも思える。
「……つまり、ですね」海月はゆっくりと始めた。
「はい」俺はなんとなく背筋を伸ばしてしまう。
「本件を普通の放火事件と考えると、奇妙な点がいくつも出てくるのです」海月はこちらを向いた。「まず、事件の概要を整理してみましょう。最初の事件は十一月十四日、現場はひばりが丘のゴミ捨て場でした。次は十二月二十一日で現場は東伏見の運河沿いの街路樹。その次が一月十九日で、谷戸町内のお寺の境内にあった木材です。そしてその次が一月三十一日、保谷のビニールハウスと、ここ、中町小学校の小屋です。その直後、昨日の夜にもう、向台町の空き家が放火されました。現場には同じ一リットル入りのポリタンクが捨ててあったので、同一犯だということがすぐに分かりました」
「はい」
海月はなんだか急に早口になったようだ。
「犯行間隔は徐々に短くなり、重大性は徐々に増しています。このことから瀬戸さんたちは、犯行が徐々にエスカレートしている、と見ました」
「……そうです」
「そう見えすぎるとは思いませんか? つまり、あまりに綺麗にエスカレートしているような気はしませんか?」
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