やるべきことが決まった皆は次々と大会議室から出ていく。二係の双葉巡査長と組むことになった楠さんが出がけにこちらを振り返り、困ったような顔で頭を下げていくのが見えた。
さすがにおかしいと思ったのか、海月は何かを尋ねる目で俺を見た。俺は、わずかに首をかしげてみせただけだった。俺たちの仕事をまだ言ってもらっていない。聞きもらしてはいないはずだ。どういうことだろう。ひな壇を見る。井上管理官と捜査一課長はさっさと席を立っているし、瀬戸係長はぽつんと残っている俺たちの方を見ようとしなかった。その隣の川萩係長と一瞬目が合ったが、川萩係長は知らぬ顔ですぐ目をそらし、署長に何か話しかけていた。
大会議室の捜査員がほとんど出ていったところで、ようやく俺は立ち上がった。まだ指示を受けていない。昨日同様に地取りだろうが、同一地区の継続だから指示する必要はない、ということだろうか?
が、訊こうとする前に署長と二人の係長も立ち上がってしまった。さすがに焦った俺は、小走りでひな壇に近づき、瀬戸係長に話しかけた。
「あの、先程は大変失礼いたしました」とにかくまず頭を下げる。「……で、自分と海月警部の両名、まだ指示がありませんが、昨日の地区の継続、ということでよろしいのでしょうか」
署長はさっさと出ていってしまっている。川萩係長も俺を見てふん、と鼻を鳴らし、大股で出ていってしまった。静かになった大会議室に、俺と海月と、額を掻いている瀬戸係長だけが残された。
「んー……ええと」瀬戸係長は俺から目をそらした。「まあ、なんだ。君たちに関しては、指示がないんですよね」
「は……」
「つまり、なんだ」瀬戸係長は助けを求める顔で川萩係長の出ていったドアを見るが、そこにもう誰もいないと分かってまた額を掻いた。「君たちはもう自分で考えて動いたらどうか、っていう話になってね」
瀬戸係長は目をそらす。そういえば、捜査資料やテレビ欄のコピーなども、俺たちの分は用意されていない。
「まあ、なんだ。気を落とさないで」瀬戸係長は俺の肩をぱんぱん、と軽く叩いた。「自由にやってくださいな。何か出るかもしれないから」
瀬戸係長はそれじゃ、と言うと、こちらを振り返りもせずにさささ、とドアから出ていってしまった。
残された俺は、突っ立ったままだった。
開きっぱなしのドアから、人のいなくなった廊下が見えた。廊下の彼方からは、それぞれやるべき仕事を与えられた他の捜査員たちの声や足音が、かすかに響いてくる。
出ていってしまった瀬戸係長に反射的に敬礼しながら、俺は呆然としていた。
……仕事が、ない。つまり、俺たちはもういらない、ということなのだ。
立っている気力がなくなり、手近な長机に尻を乗せた。なぜか海月が、廊下へ出ていった。俺は動けず、彼女に声もかけられないまま、尻の下で冷たい長机が徐々に温まっていくのを感じていた。
俺には、こんな経験は初めてだった。いや、こんな事態は警視庁全体でも初めてなのではないだろうか。上は俺たち二人を「足手まとい」と見なし、仕事を与えなかったのだ。邪魔になるからそのへんで遊んでいろ、というわけだ。
全身から力が抜けた。俺は捜査一課の刑事なのだ。一課ではまだ経験が浅い方だが、戸山署時代の検挙実績を買われて本庁に引っぱられた。戸山署時代は署代表で逮捕術と射撃の競技会に出て、射撃の方は警視庁大会で入賞もしている。交番勤務の頃には刃物を持って暴れる男を無傷で捕まえたし、刑事部長賞も持っている。警察学校でも、採用試験でも、成績優秀だと褒められたのだ。先輩方にはまだ及ばないにしろ、足手まといなどということは絶対にないはずなのに。
だがそれを訴えようにも、大会議室にはもう誰もいない。静まりかえった広い広い部屋に残っているのは、俺と。
そこでようやく海月のことが気になった。……彼女はどこに行ったのだろう。とにかくまずは、彼女を捜さなくては。俺は彼女のお守りを任されているのだ。
そう思ったところで海月が戻ってきた。警部、と声をかけると、海月は気遣わしげに俺の顔を覗き込んだ。「……設楽さん、大丈夫ですか?」
「ええ、まあ……」
口だけは動いたが、考える気力が湧かない。海月は戻ってきたが、ではこれから、俺はどうすればいいのだろう。
「気分が悪いのですか?」
「いえ、平気ですが……」
海月はその答えを聞くと、にっこり笑ってダッフルコートをばさ、と羽織った。「では、わたしたちも行きましょう」
「……はあ?」
「捜査ですよ、設楽さん」海月はトグルボタンを留めながら、元気よく言う。「わたしたち、今日からは自由に動いてよいのです。頑張って事件を解決しましょう」
「自由、って……」
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。