その言葉を聞いたとき、僕の手は震え、背中には産毛が逆立つようなぞわぞわとした感覚が生まれた。
「えっ、どういうこと?」
しっかり聞こえていたにも拘わらず、僕はそう尋ね返した。
『嫌いになったわけじゃないけど、もうこれ以上付き合えない。好きじゃなくなった』
真赤の声は落ち着いており、思いつきや、何か突発的な衝動によって口にしているわけでもなさそうだ。つまり、彼女は冷静な判断と強い意志に基づいて、この台詞を口にしているというわけか。
僕は眩暈がするほど驚いた。まったく想定不可能な事態というわけでもないし、はっきりとした予兆だってあったのに、今更驚くことが出来るというのは、僕はやはり真赤のことを心のどこかで見くびっていたのだろう。彼女が以前言った通り、何を言っても彼女の方から別れを口にするはずがないと、そう思い込んでいたのだ。
もちろん、経緯や状況を考えれば当然のことで、常識的な感覚の人間からすれば、こんな人間に女がついて来る方がおかしい。この結末に関してはまったくもってざまあみろという他ないのであろうし、僕だって落ち着いた時ならばそれくらい考えることは出来るが、実際直面してしまうとそう簡単にはいかないものなのだなあ。ほとんど携帯電話を取り落としそうになりながら、唾を飲み込んだ。
「いつからそんなことを?」
と動揺しきった不安定な声で訊ねてしまう。
『この間、水屋口さんの家で喧嘩したでしょう?』
「う、うん」
彼女が言っているのは、おそらく先週の出来事だろう。
いつもの様に彼女が泊まりに来ていて、そしていつもの様に口論になった。
僕は大声で騒ぐ彼女に腹が立って部屋から締め出してドアに鍵をかける。すると真赤はしばらく玄関の前でわんわんと大声で泣く。やがて静かになると僕も心配になって、再びドアを開いて彼女を招き入れた。その時彼女は缶コーヒーを一つ握りしめていた。聞くと、通りかかった僕の弟が、落ち着いた方が良いと渡してやったらしい。
『あの、外に出されて泣いてた時、気持がすっとさめたの』
と、真赤は言う。
しかし、そう説明されても僕は相手の心情が想像出来ず、言葉が頭に入らず、アワアワと言い訳にもならぬ言い訳をしてしまう。今までもっとひどい喧嘩なんかたくさんあったのに、どうして急に。つもりつもったものがあるのよ、と、真赤は冷たくあしらって、いささかも揺らぐ様子がない。
これまで僕は女から別れ話を切り出されても引き留めたことがなかった。そんなことをしても無駄なのは知っていたし、自分の敗北に追い打ちをかけるだけだということもわかっている。出来うる限りクールに受け止めたい場面だ。けれど、この時僕は不覚にも判断力を失って、生まれて初めて引き留めの言葉を口にした。
「どうか、どうかもう一度だけ考え直してくれないか。おれが悪かったところは、なんとかして修正するから」
プライドをかなぐり捨てての僕の一世一代の懇願は、
『無理』
の一言でもって否定されたのであった。
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。