仕事漬けの日々だったが、彼の生活は充実していた。
京都の劇場は、アルバイトの数も多いし、かける映画も多い。
映画の初日には出演者が舞台挨拶に来たりするし、重要拠点として本部の人たちと頻繁にやりとりしなければならない。
京都・二条のワンルームの部屋には寝具や照明器具など、必要最低限のものだけ揃えた。
残りの家具は休みの日に少しずつ揃えていこう、と思っていたけれど、仕事が忙しすぎてなかなか買いにいけなかった。
それでも少しずつ、殺風景な部屋は彩りを増していく。物の少ない部屋の隅に、母親から託されたアイロンが鎮座している。
“元気にやってますか? わたしは元気です”
春のメジロが庭にやってくるように、ときどき亜也華ちゃんから手紙が届いた。
夜中、部屋に入る前にポストを確認し、彼女からの手紙を見つけると、とても嬉しかった。彼女の書いた文字の形を見つめ、彼は彼女の言葉を胸のなかで反芻する。
手紙の内容はたわいもなく、バイト先でクレームつけられた、とか、勉強が難しい、とかそんな感じだった。
もっと目標が欲しい、とか、将来はこうしたい、とか、そういう話もときどき書いてあった。
彼女の手紙はいつも彼をふんわり気分にさせたけれど、恋の萌芽を感じさせるような内容ではなかった。
亜也華ちゃんは、ちょっと変わった子なのかもしれない。
活動的な彼女はいろんなことに興味があって、友だちと遊んだりアルバイトをしたりサークル活動をしたりするのと同じように、誰かに手紙を書きたいと思っていて、彼がその手紙要員だったのかもしれない。
彼のほうも、誰々が舞台挨拶に来たよ、とか、もうすぐワールドカップだね、などという手紙を書き、二条城の写真と一緒に送った。
二〇〇六年六月、FIFAワールドカップ・ドイツ大会で、日本代表はブラジルに惨敗し、迷走したようにも見える長い闘いを終えた。
ずっと彼のスターだった中田英寿が、ドルトムントのスタジアムで大の字になっていた。それを観た人々はいろいろなことを感じ、彼もまたいろいろなことを感じた。
“スイスに行くことになったよ!”
七月、亜也華ちゃんからの手紙が届いた。彼女はずっと大学院の海外留学プログラムに応募していたのだが、見事それに選ばれたらしい。
“九月から、一年半くらい行ってくる。向こうでも手紙書くからね”
亜也華ちゃんはスイスのローザンヌというところの工科大学に研究留学するらしかった。
向こうの研究者と共同研究をして論文を書くのだという。彼女の文面からは、喜びや興奮も伝わってくるけれど、未知なる世界への不安も伝わってくる。
“凄いね! 帰ってきたら英語教えてよ”
彼女も頑張っているんだな、と思うと、なんだか嬉しかった。
スチャラカ大学生だった彼からすれば、海外の大学で研究して論文を書くなんていうのは、驚きの話だ。
“不安もあるだろうけど、亜也華ちゃんなら大丈夫だよ。おれもがんばるから、亜也華ちゃんもがんばって!”
九月、彼は京都の空を見上げた。
今まさに、亜也華ちゃんは機上の人だった。お互いがんばろうね、と小さくつぶやきながら、彼は職場へと向かう。
季節は秋へと向かい、やがて冬へと向かった。
ときどきローザンヌの工科大学のラボというものを想像しながら(あまりうまく想像できなかったが)、彼は一心不乱に自分の仕事に励んだ。
ピザ宅配バイト時代も劇場バイト時代もそうだったし、配給会社のバイト時代もそうだったが、彼にはちょっと頑張りすぎるきらいがあった。
生真面目な彼は何ごとも一人で抱え込み、傍目には、別にそこまでやることはないだろう、というふうに見えていたかもしれない。
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