「いやあ、はっはっは。面白いことおっしゃいますよねえあの方。私も気になってきましたよ。どうして息子夫婦が出てこないんでしょうね、あの話」
フォローされればされるほど辛い。だが助手席に座る所轄の楠巡査部長は朗らかに笑っている。
「お手数かけて申し訳ありません。どうせキャリアですし、さっき配属されたばかりなんで、どうか大目に見ていただけると」
「いやいや、なんなら、明日からは周辺住民宅を訪ねる時、あの方にドア開けさせるってのはどうです? 警察官に見えませんし、警戒されないかも」
「そうだといいんですが、ついでに余計な活躍をしそうで、どうも……」
「はは、そうですねえ」元が明るい人であるらしく、楠巡査部長は楽しげである。
それから身をかがめて外を窺う。「さて、それにしてもあの方、どこまで行っているんでしょうね。いいかげん戻られてもいいはずだが」
さっき海月がもじもじしながら「お手洗いに」と言いだしたので(我慢していたらしい)、今は車を止めて、トイレを探しに出た彼女を待っている。現在、午後九時半。東京といっても外れの方なので派手なネオンも高層ビルもなく、周囲には畑すらある。車外の都道は街路灯の明かりが等間隔で並ぶ他には照明もなく暗い。
「迷ってるのかな。この辺は、一本路地入っちゃうとややこしいから」楠さんは呟き、くっくっ、と笑った。「交番で道、訊いてたりして」
「うっ……」不吉なことをおっしゃる。
あの後、瀬戸係長の必死のフォローで第一回の捜査会議はなんとか常態を取り戻し、地取り捜査に人員を重点的に配置する旨が伝えられた。もともと鑑捜査の余地はあまりなく、唯一の遺留品であるポリタンクも大量生産品である上、購入したのが三ヶ月以上前とみられることもあり、そのルートからの犯人割り出しは困難なものだったのだ。基本に忠実にやるしかない、という判断は瀬戸・川萩両係長の一致した見解だったらしい。
現在、俺は地取り捜査に割り振られ、この楠巡査部長とともに市北西部の住宅地を回っている。海月も同行している。捜査の班分けは二人一組が原則なのに俺の班だけ彼女を入れて三人になっているということは、つまり海月は「一人」として計算されていないのだろう。俺たちに割り振られたのは第一の現場からは少し南側に離れた地域だったし、班分けの際には川萩係長が牙をむき出し「絶対に目を離すな。ベルトがっちり掴んどけ」と俺に厳命した。被疑者扱いである。
むろん本当に掴まえているわけにはいかないので、俺は「最初ですから、訪問先での質問は俺たちがやります。どういう手順でやるか後ろで見ててください」と海月に言い、そのためか彼女は、とりあえず聞き込み中は俺の後ろでおとなしくしてくれていた。
聞き込みは基本的に歩いて歩いてまた歩く捜査だ。昼に担当地区内の家を一軒一軒訪ねて話を聞き、夜にもう一度訪ねて家族内の別の人間からも話を聞く。家族構成と普段の行動を聞き、世帯全員から話を聞けなかったところはチェックを入れる。昔は皆、喜んで近所の情報を教えてくれたのに、と楠さんが嘆く通り、「何の調査ですか」「答えるのは義務ですか」と嫌そうな顔をされたり、門前払いされることが多かったが、マンションでなく戸建てが多いせいか、俺の経験からすればこの地区はまだましな方だったようだ。
もっともそれでも、午後九時半まで歩き回って、報告書に書けそうなことはほとんど何も聞けなかった。昨日深夜から今朝未明にかけての犯行時間帯、一月、十二月の犯行時、あるいはそれ以前……質問項目は多かったが、不審者の情報は出てこなかった。もともと、警察の捜査など収穫ゼロが普通なのだが、それでもこういう日はやはり一抹の寂しさがある。明日からはちょっと海月に先陣を切らしてみようか、などと、窓の外を見ながらつい考えてしまうが、それにしても当の海月が戻らない。やはり道に迷っているのだろうか。
「本格的に迷子ですかねえ。それとも誘拐されたとか」
「いえ、まさか」
「いやいや、分かりませんよ? あれだけちっちゃければ、抱えて持っていきたくなるかも」楠さんは楽しげに言う。捜査会議の後、海月のいないところで俺が川萩係長に叱られているのを見ていたらしく、彼女のことについては完全に俺に任せ、他人事として面白がることに決めているらしい。
しかし、話しているうちに本当に不安になってきた。いくらなんでも誘拐されてはいないだろうが、痴漢にでも遭っているのではないか。ついさっき電話をしてみたが出なかった、というのも気になる。
「すいません。ちょっと捜してきます。あの人たぶん迷子になってます」
俺がドアを開けると、楠さんは苦笑しながら頷いた。「お願いします。……はは、お姫様があれだと御家老は大変ですね」
まあ、わがままなお姫様でないのが救いだな、と思いながら車を降りる。今夜は空気が冷たく、やっぱりやめようか、という気が起こらなくもなかったが、車を振り返ると楠さんはこれ幸いとばかりに内ポケットから煙草を出していた。俺も海月も吸わないので我慢していたらしい。俺は溜め息をついて歩き出した。
海月の歩いていった方向を辿りながらつい舌打ちが出てしまう。考えてみればあの人が本部庁舎の玄関ホールで迷い(キャリアなら何度も来ているはずなのに)、大部屋から反対方向に出ていった時点で相当な方向音痴だということは分かっていたはずである。一人で降ろさず、コンビニか何かの前まで運転すればよかった。彼女を見つけるのは苦労した。電話はつながらないし、近くのコンビニにもおらず、レジで聞いたところでは、周辺には他にトイレを借りられそうな店舗はないという。だとすると住宅街の路地をうろうろしているのか、と思って周囲を歩き回るが、彼女の姿はない。あれだけ小さいと、路地の暗がりに溶け込んでしまって見つけにくそうだ。などと思いながら走り回っていると、角の向こうから声がした。
駆け出して都道に出る。暗がりになっていてよく見えないが、声がしたのは都道沿いの、明かりの消えているガソリンスタンドからのようだ。この時間帯で明かりが消えているということは、ガソリンスタンドではなくガソリンスタンド跡なのだろう。
再び何か、鋭い声が聞こえた。間違いなく海月の声だったが、俺は嫌な予感を覚えた。声の調子が普通でなかった上に、こういう場所で、というのは。
急いで近づくと、海月の声がまた聞こえた。ガソリンスタンド跡の中は街路灯の光が届きにくくなっていて暗かったが、海月らしき小さな人影が、立ったり座ったりしている四つの人影と向きあっているのが見えた。四つの人影はいずれも男のようだ。
──それならもういいです。少年課の方に来ていただきますから。
海月の声がした。嫌な予感が当たった。どうもあの人は、ここにたむろしている不良少年たちに何かつっかかっているらしい。暗がりの中でちらりと赤い光が見えた。座っている少年の一人が煙草に火をつけたらしい。
──こらっ、君、未成年でしょう。
海月が言うと、煙草に火をつけた少年を隣の少年がどついた。少年たちの方は余裕のようで、海月の真似をして「未成年でしょう君」などと言いあい、笑っている。
──それより遊ばない?
煙草を吸っている少年が座ったまま海月の手を引っぱり、隣に座らせようとする。海月がその手を払って何か言うと、両隣にいた二人が立ち上がって彼女を取り囲んだ。
どうも、面倒なことになっているようだ。それにあの不良ども、臭いからしてどうも煙草以外の何かもやっているらしい。俺はどうしようかと思ったが、少し離れた暗がりからちょっと見物することにした。海月がきちんと対処できるのかを見てみよう、と、少し意地悪な気持ちがあった。手助けをするのは、情勢が悪くなってからでもいい。
暗くて細かくは見えないが、彼女を囲む三人の少年は髪を染め、それなりに派手で威嚇的な外見をしている。少し離れて立っているもう一人はかなり体格がいい。夜中につるんでいようが喫煙をしていようが、普通の女性警察官なら、単独で声をかけるのは躊躇ってもおかしくないところだ。
が、海月はやめなさい、と言って、大胆にも、座っている少年の煙草を引ったくった。
俺は軽く口笛を吹いた。座っていた少年が立ち上がる。
三人が彼女を囲み、年齢のわりにドスの利いた声を出した。──おい、調子乗んな。
立ち上がった少年が海月の肩を掴む。
もう出ていくべきだとは分かっていたが、俺はまだ少し決心がつかなかった。もしかして、普段抜けたりズレたりしているだけで、海月はそれなりに、やる時はしっかりやる人間なのではないか、という期待がかすかにあったのだ。
が、肩を掴んで足をかけられた海月は、ひゃっ、と短く悲鳴をあげてすてん、と転び、ついでに地面に後頭部をぶつけて仰向けに伸びてしまった。
「……おい」
俺は唖然としたが、転ばせた少年の方もこんなに簡単に伸びてしまうとは思っていなかったらしい。えっ、ちょっと、と三人の焦った声が聞こえ、転ばせた少年はどうしよう、という感じで、少し離れて立っている少年に何か訊いたりしていた。
俺は体中の力が抜けて、その場にへたりこみそうになったが、伸びている海月を覗き込む少年たちの声に興奮した様子が見えてきたので、仕方なく出ていくことにした。「こら、お前ら何やってる」
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