一故人

ヒュー・ヘフナ—娘と息子に引き継がれた「プレイボーイ帝国」

『プレイボーイ』の創刊者として知られる実業家ヒュー・へフナー。創刊の経緯やメディア戦略の背景にある彼の価値観は、現在のマスコミ業界においても参考になる部分が多いはずです。ライターの近藤正高さんが、その生涯を綴ります。

『プレイボーイ』のヌード復活劇

2017年2月13日、アメリカの男性誌『プレイボーイ』が、前年の3月号より中止していたヌード写真の掲載を再開すると発表した。同月発売の同誌3・4月号では、表紙に「Naked is normal(裸は普通のこと)」とのキャッチを掲げ、1年ぶりにヌードが復活する。『プレイボーイ』の発行部数は、1972年の720万部がピークで、ヌード掲載中止を決定した時点で80万部となっていた。だが、中止のあと、さらに70万部以下にまで落ち込んでいた。

そもそも『プレイボーイ』がヌードの掲載中止を決定したのは、2年前の2015年10月のこと。その理由について、発行元のプレイボーイ・エンタープライゼズ(以下、プレイボーイ社)の最高経営責任者(CEO)のスコット・フランダースは、インターネットにさまざまな画像があふれかえる状況に対応し、《あらゆる性的な画像が無料で見られる時代に、そういう写真はもう古い》と判断したためと説明した(『朝日新聞』2015年10月14日付夕刊)。

しかしこの決定に対し、プレイボーイ社内には反対する者もいた。クーパー・ヘフナーはその一人で、ヌード中止が決まったあと、いったんは同社を離れた。だが、まもなくして『プレイボーイ』のチーフ・クリエイティブ・オフィサーとして返り咲き、編集責任者の権限で誌面にヌードを復活させる。

このときクーパーは、中止決定の判断は「まったく間違っていた」と認めたうえで、「問題はヌードそのものにではなく、ヌードと女性たちを表現する形にあった」と強調した。一方で、社会における男女の役割の変化に同意する証しとして、それまでの副題「男性のためのエンターテインメント」を表紙から外している。

クーパーは、ヌードを復活させた号の発行にあたり、《『プレイボーイ』誌のこの号を、読者の皆さんと私の父と共有できることは、個人そしてプロとして本当に特別なことです。このブランドがどれだけ最高の形で、私の世代や未来の世代と結びついていけるのかを示しています》と記者会見で語った(『エスクァイア』2017年2月14日配信)。「私の父」とは、ほかでもない、『プレイボーイ』の創刊者であるヒュー・マーストン・ヘフナー(2017年9月27日没、91歳)その人を指す。

ヒュー・ヘフナーは生涯に3人の女性と結婚しているが、クーパーは、このうちヒューが2人目の夫人とのあいだに儲けた子供だ。ちなみにクーパーは、『プレイボーイ』のチーフ・クリエイティブ・オフィサーとなった時点で25歳だった。66歳上の父が同誌を創刊したのは1953年、27歳のときだから、息子もほぼ変わらない年齢で編集の実権を握ったことになる。

クーパー・ヘフナーは、《会社の創業者が性革命を始めた本人なのに、ヌードをやめて、その会社のDNAを取り除いたら、私をはじめ大勢がこの会社はいったい何をしているのかと言うでしょう》ともインタビューで語っている(『エスクァイア』前掲)。その言葉どおり、『プレイボーイ』は1枚のヌード写真から始まり、やがてアメリカの性の解放に大きく貢献するようになった。ここで、ヒュー・ヘフナーが『プレイボーイ』を創刊し、成功を収めていくまでの足跡をたどってみよう。

マリリン・モンローのヌードから始まった

ヒュー・ヘフナーは1926年4月、アメリカ中西部のシカゴに生まれた。家庭は比較的裕福であったが、厳格なプロテスタントの教義に支配されていた。飲酒や喫煙、悪口もカード遊びも禁じられ、日曜日は必ず教会に通い、信仰のための一日として、ラジオをつけることも許されなかった。そのなかで絵を描くことや、粘土遊びは許され、幼いヘフナーにとって気晴らし以上のものとなっていた。

内向的で、学校でも白昼夢にふけったり、いたずら書きをしてすごしていたヘフナー少年だが、母親が児童心理学者の助言を受けて、愛情や理解を示すようになってからというもの、急に成績がよくなったという。一方で、家の寝室の壁を、『エスクァイア』誌に載った女性ヌードのイラストで飾ったりするようになる。

15歳のときには、恐怖映画に関するクラブをつくり、その会員のための雑誌も発行した。これは発行部数1部の回覧誌で、5号まで刊行されたという。ハイスクールに入ると、演劇や映画づくりに熱中し、生徒会長や文学クラブの副会長も務めた。ダンスもうまくなり、女の子とも気楽につきあえるようになったが、家では信仰から性的なものがタブーとされてきたため、性交渉におよぶまでにはいたらなかった。

性的葛藤はその後も長らく続いた。第二次世界大戦中の1944年にハイスクールを卒業後、軍隊に入る直前にパーティーで知り合ったミルドレッド(ハイスクールの同級生だったが、在学中には面識はなかった)という女性とつきあうようになったものの、相手も敬虔なカトリックの家で育ったため、ヘフナーになかなか体を許さなかった。

その後、ヘフナーは終戦後の1946年に除隊、ミルドレッドと同じイリノイ大学に入る。彼女との交際は続き、互いに戸惑いながらも、性に対するタブー意識を乗り越えていった。ヘフナーの卒業を待って、2人は1949年6月に結婚する。

ヘフナーは当初マンガ家を志していたが、思うような仕事口は得られなかった。そのため結婚してからしばらくは、教職に就いた妻の収入に依存することになる。一時はウェスタン大学の大学院に籍を置き(専攻は社会学)、「性を規制する法律とその背景に踏まえられた価値観」に関する論文をものしたものの、規制する法律の全廃を主張したその結論は、指導教官の共鳴を得られず、大学をやめてしまう。

以後、職を転々としながら、やがて少年時代に憧れたエスクァイア社の販売促進部門に就職するも、これもわずか1年でやめている。ヘフナーによれば、希望した5ドルの昇給を拒否されたのが原因だというが、これについて『エスクァイア』の創刊編集長のアーノルド・ギングリッチは後年否定している。

ヘフナーはこのころには、いつの日か、シカゴの都市生活に取材した、上質紙を用いた豪華雑誌を華々しく創刊することを夢見るようになっていた。エスクァイア社から、シカゴ雑誌界の有力者フォン・ローゼンの会社に移り、アルバイトの販売主任として働くようになった彼は、雑誌の編集から流通にいたるまでの過程を目の当たりにする。そこで得た知識は、その後『プレイボーイ』を立ち上げるにあたりおおいに役立った。

1953年に入ると、今度は児童雑誌の販売部で働きながら、いよいよ自分の雑誌を出すべく準備を進めた。その資金として、自宅アパートにあった少しばかりの家具を担保に銀行から600ドルを借りる。彼はこのうち500ドルをはたいて、女優のマリリン・モンローが無名時代に撮ったヌード写真を、その版権を所有していたシカゴ郊外のカレンダー製作会社から買い取った。先に「『プレイボーイ』は1枚のヌード写真から始まった」と書いたが、それがこのモンローの写真である。ヘフナーと同じ1926年生まれのモンローは、この年、映画『百万長者と結婚する方法』『紳士は金髪がお好き』などに主演し、セックスシンボルとして一躍人気スターとなっていた。ヘフナーは彼女の“お宝写真”を、新雑誌の一番目立つセンターフォールド(雑誌中央の見開きページ)に持ってきた。

彼は当初、この新雑誌に、男たちがストリッパーを呼んで騒ぐ集まりを意味する『スタッグ・パーティー』という露骨なタイトルをつけようとしていた。だが、どこで聞きつけたのか、ニューヨークの『スタッグ(雄鹿)』という狩猟雑誌から、誌名を考え直さなければ法的措置も辞さないと通告を受け、『プレイボーイ』と改める。その創刊号は48ページとなり、表紙に裸ではないモンローの写真を載せ、1953年10月、1冊50セントで発売された。

成功に確信を持てなかったヘフナーは、創刊号の奥付に自分の名前を載せず、また、売れ行きが芳しくない場合、翌月まで店頭に置いてもらうため発行日も記入しなかった。しかし、7万部を刷った創刊号は、モンローの写真が載っているとの噂が広まったおかげで、5万3000部という売り上げを達成する。この成功を受け、彼はさっそく第2号の準備に着手し、今度は奥付に堂々と自分の名前と発行年月日を入れたのだった。

プレイメイトという「発明」

『プレイボーイ』では初期より、センターフォールドを「プレイメイト」という呼ばれる女性たちのヌードが飾ってきた。プレイメイトには、モデルなどプロの女性ではなく、健全で清廉な風情を漂わせた素人が起用された。

翻訳家・作家の常盤新平は、このプレイメイトの企画こそ、ヘフナーの「発明」だったと評している。常盤によれば、それ以前、アメリカの男性雑誌は紙の質が悪く、ヌードになる女性も《「番犬」みたいにおっかなかった》という(常盤新平『アメリカの編集者たち』)。それを『プレイボーイ』は、質のいい紙で、“隣家のお嬢さん”のような娘たちのヌードを惜しげもなく掲載したのである。

プレイメイトの女性たちは、まず何より、当のヘフナーが自分のものにしたいと思わせる存在でなければならなかった。そこには、《読者の好みをあれこれ推し測る従来の編集よりも、編集者の趣味や判断が内容の第一の規準になるべきである》との彼の信念(常盤、前掲書)がもっとも端的に表れていたといえる。

ヘフナーとしてみれば、自分と考えを同じくする少数の読者に気に入ってもらえれば、それで満足だと考えていたようだ。しかし、『プレイボーイ』は、予想をはるかに超えて、多くの若い男性の支持を集めることになった。

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一故人

近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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コメント

marekingu #スマートニュース #HughHefner #RIPHef #PLAYBOY 10ヶ月前 replyretweetfavorite

donkou 本日掲載の記事のなかで、『プレイボーイ』創刊号を飾ったマリリン・モンローが、創刊者のヘフナーと同じ1926年生まれだったことに触れたが、このほかエリザベス女王、渡邉恒雄、石井ふく子、植木等なども同い年。https://t.co/pl70Ca3rqC 10ヶ月前 replyretweetfavorite

urbansea 近藤正高「一故人」、《翻訳家・作家の常盤新平は、このプレイメイトの企画こそ、ヘフナーの「発明」だったと評している。》 https://t.co/0pPYZYdrZF 10ヶ月前 replyretweetfavorite

donkou ケイクス連載「一故人」が更新されました。今回は米誌『プレイボーイ』の創刊者 10ヶ月前 replyretweetfavorite