さて、今回は珍しく前回の予告通り、SF系で……という前にまず、抱えていた本を片付けよう。一年以上前の本ながら、どっかで何か言わねばならないと思いつつ、ずっと先送りしていた管賀江留郎『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』(洋泉社)だ。
これはとっても変な本だ。『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』という題名なので、そういう説明が書いてあるんだろうと思って本を開くと……1941年から42年にかけての「浜松事件」(Wikipediaでは別の抗争事件と区別するため「浜松連続殺人事件」となっている)という聞いたこともない事件の説明が延々と続く。これは前ふりだろうと思って読み進めると、一向に終わらない。事件の概略、それを捜査し、事件を取り巻く人間模様、その担当刑事・紅林啓治と、かれが後に作り出したえん罪事件の二俣事件、さらにはそれらを担当した弁護士たちの様々な人間模様までが次々に明かされる。
そして、その調査も徹底している。管賀江留郎という人を食ったペンネームのこの人物は、「少年犯罪データベース」で知られる。このサイトのデータは、文化人などが「最近の若者はキレやすい、暴力的だ」といったインチキな発言をするたびに、反証事例として引き合いに出される。国会図書館にこもって古い地方紙などの細かい記事をひたすら漁る調査能力は本書でも遺憾なく発揮されていて、関係者の得体のしれない自費出版本、さらには事件の遺族にまで直接ヒアリングをするという行動力まで発揮。ちなみに、こうした遺族のヒアリングについては、かの殺人評論家である柳下毅一郎が手引きしたとか。
それだけの調査を背景としたこうした事件の記述はめっぽうおもしろい。おもしろいんだが……しばらくするうちに、はて、自分はなぜこんな、聞いたこともない昔のえん罪事件の詳細をあれこれ読まされているのだろうか、という疑問がわいてくる。道徳感情はどこで出てくるんだ!
それがやっとまとまった形で出てくるのは、本書も後半にかなり入ったところ。えん罪が起きるのは、捜査する側、裁判する側、そしてマスコミが、思い込みで勝手なストーリーを作り上げて事足れりとしてしまうから、と指摘するのだ。人間は社会を成立させるために、互恵的利他主義を生み出した。情けは人のためならず、因果はめぐるというやつだ。そしてその因果に基づき、他の人が何か規範を逸脱するようなことをしていたら、自分が損をしてでも、それを罰しようとする仕組みができている。それをやることで社会の中で自分の評判があがり、いずれは自分に恩恵をもたらす。そして、なんとしてでも規範に外れた行為を罰しなければ、という思いが安易なストーリーへの飛びつきを促してしまう。
これは人間の発展にとってはとても重要な仕組みではあった。でも、互恵的利他主義がある意味で暴走してしまう結果として、人はたとえば因果関係のないところにすら勝手に因果を見て、お話を作ってしまったりする。そして、そのお話のもとになるのは、勝手な社会的偏見だったり単なる偶然だったり。それがえん罪にもつながるし、またときには差別の原因にもなり、テロや集団虐殺にすらつながる、というのが本書の主張だ。では、それに対抗するには?
一つの手は、そうした社会や因果と関係なく生きることだ。他人とのつながりを断って、涅槃の境地に入る——お釈迦さんの悟りのような方法——だ。でも一方で、人が勝手に因果関係をでっちあげてしまう認知バイアスを持つ事を認識し、そのバイアスを話し合いを通じて矯正し、「公平な観察者」に近づけるような民主主義を実践する道もある。だからこそ民主社会は強い! そして、それを『道徳感情論』で指摘したアダム・スミスはすごい! これが管賀の見解だ。
うーむ。 ある意味、めまいがするような本だ。なんだか全然関係ない話が延々展開したと思ったら、それが最後にするするっと予想外の方向に流れてまとまるのは、爽快というべきか、キツネにつつまれた気分(つままれた、が正しいのは知ってるが、つつまれるほうが好きなのだよ)。宮崎哲弥の言うような名著かどうかはわからない。怪著と言うべきか。
難を言うなら、それまでの具体性を掘り下げた実録に対し、結論がいきなり大風呂敷な抽象論になり、バランスがえらく悪いこと。人は認知バイアスがある。だから客観的な証拠に基づいて自分を常に修正する努力が必要だ——それはその通りだと思う。間接互恵性を維持するために、ストーリー作りと、自分が損をしてでも不正をしたやつを罰する必要があるという道徳感情が生まれる。これまたその通り。でも、これだけならこの数百ページに及ぶえん罪事件の前置きはいらない。事件そのものの記述の具体性の後で、なんか結論部分はとってつけたような印象さえあって、全然別の本を二冊読まされたような気分になる。とはいえ、そのどちらの本もめっぽう(ちがう意味で)おもしろく、そして三回ほど読むとそれが少し融合してきて、著者の主張もわかりやすくなるかな。
ではやっとSFの話に移ろう。まずはバリントン・J・ベイリー『ゴッド・ガン』(ハヤカワ文庫SF)。これは……。ベイリーという作家は、ワイドスクリーン・バロックという意味不明のレッテルを貼られているけれど、その真骨頂はかれが矢継ぎ早に繰り出す得たいのしれないアイデア。表題作「ゴッド・ガン」は、神を殺す話だ。タイトルだけ見ると、神は死んだ、というなにやら形而上学的な話が展開されるように思うだろう。でもバリントン・J・ベイリーは、あらゆる観念や比喩を物理的実体に置き換えてしまうという異様な力を持っている。この本当に短い短編は、まさに本当に物理的に神様を殺すお話、なのだ。そして殺してどうする? どうもしない。とにかく殺せるから殺す。それだけ。
その他すべての小説も、「よくまあこんなことを考えつくものだ」というような、本当の奇想ばかり。知恵比べという意味で使われるブレインレースを文字通りにとらえ、本当に脳みそが競争してしまうというとんでもない話に仕立てたり、蟹がアメリカン青春ドラマしてみたり。
いやあ、大学時代のぼくはベイリーのくだらない思いつきに喜んでいたけれど、年を食ってくると、昔おもしろかったものが、ずいぶんあほくさく見えることはよくある。本書もそうなんじゃないか、とぼくは恐れていた。大学時代にあんなにニタニタさせてくれたものが、つまらない思いつきに感じられるのでは、と。
が、それは杞憂。というよりぼくはこれを読んで、この人が学者になっていたら——物理学者でも経済学者でもなんでも——なんかとんでもない業績を挙げていたんじゃないかという気がしてならなかった。この異様な発想力、そしてそのありえない思いつき、他の人ならもてあましてそのまま忘れるであろう着想を、無理矢理それっぽいお話にまとめあげてしまう能力は、なんかもっと人類のために使えたんじゃないか。かつてSF作家ジョン・スラデックについて、前出の柳下毅一郎が「天才をひたすら無駄づかいした」と(いい意味で)評していたけれど、ベイリーもそんな作家ではある。おかげで、SF読者たちはこんなわけのわからん小説をたくさん読めて、ありがたいわけではあるけれど。
続いてハーラン・エリスン『ヒトラーの描いた薔薇』(ハヤカワ文庫SF)だ。エリスンについては以前、『死の鳥』(ハヤカワ文庫SF)を『ケトル』で取り上げたことがある。そのときの評は、「アドレナリンたぎる性欲と暴力衝動と権力欲を、とんでもない華美な文でくるんだもの」というものだった。本書はそれに続く、エリスンの短編集第3弾となる。
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