第32回 アップル・ジャパンと「漢字」との格闘

スタンフォード大学を卒業後、ジェームス比嘉は、アップルの仕事をごく軽い気持ちで引き受けました。比嘉はアップルに一歩踏み入れたときに感じた雰囲気に圧倒されます。マッキントッシュチームが入居している平屋のビルにはグランドピアノが置かれ、そこから開発部とマーケティング部が両サイドに振られています。この一方のサイドを陣取っている開発部では、格好にはおかまいなしのエンジニアたちが陣取って独特のエネルギーを放っています。ここで出会ったスティーブ・ジョブズが何度となく比嘉に語ってきた強烈なビジョンは、二十代の比嘉を魅了しました。人間の思考を「増幅」するマシンを世界中に、いずれ1,000ドルで普及させるというビジョン。そうしたジョブズの考えは、スタンフォード大学のコンピュータサイエンスの授業で習ったこととはまるで違っていて、宗教指導者のように、聞くものを恍惚とさせる響きを持っていました。

登場人物たち

スティーブ・ジョブズ 言わずと知れた、アップルコンピューターの創業者。1976年に創業し、1980年に株式上場して2億ドルの資産を手にした。その後、自分がスカウトしたジョン・スカリーにアップルコンピューターを追放されるが、1996年にアップルに復帰。iMac, iPod, iPhone などの革新的プロダクトを発表しアップルを時価総額世界一の企業にする。

水島敏雄  東京で「ESDラボラトリー」という小さな会社を営む。マイコンの技術を応用し、分析、測定のための理化学機器の開発を行うために作った会社で、ESDという名称は、 Electronics Systems Development の頭文字をとっている。東レの研究員として働いていた時代から大型コンピュータや技術計算用のミニコンに通じており、マイクロコンピュータの動向には早くから注目していた。ESDは日本初のアップルコンピューターの代理店となる。

『スティーブズ』

曽田敦彦 構造不況の中、業績が芳しくない東レが、「脱繊維」を掲げ新分野として取り組んできたのが磁気素材の分野だった。ソニーのベータマックス用としてはさらに薄地で耐久性のあるテープ素材の開発が必要で、45歳になる曽田はこのプロジェクトの中心として部下に20名以上の研究員を従えている。地味で根気のいる仕事ではあったが、東レがハイテク新素材メーカーへステップアップする上でこのプロジェクトは重要な意味を持っていた。

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林檎の樹の下で -アップルコンピュータジャパン物語- ✕スティーブズ外伝

うめ(小沢高広・妹尾朝子) /斎藤 由多加

ふたりのスティーブ、ジョブズとウォズニアックが設立したアップルコンピューターは、1977年4月、サンフランシスコで開催されたウェストコーストコンピュータフェアに出展した。ジョブズがこだわりにこだわったベージュ色の本体の数が足りないので...もっと読む

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コメント

karappo 観測中・・・「リンゴのプロジェクトは、アップル、エルゴソフト、そしてキヤノン販売の三者によって動きはじめた」:『 約2ヶ月前 replyretweetfavorite

marekingu #スマートニュース 2ヶ月前 replyretweetfavorite

tobu1 ジェームス比嘉さん 👉 2ヶ月前 replyretweetfavorite

marekingu #スマートニュース 2ヶ月前 replyretweetfavorite