家康は馬上で周囲をみまわした。荒れ野原のような洛中だが、そのかわりに騎馬すれば見通しがよい。織田全軍三万が、おおむね出立態勢を組みおえたのをみて、重臣のみに集合をかけた。
「くどいようだが申し置く。織田に助勢する以上、織田の法にしたがう」
騎馬したままの軍議は家康はあまり経験がないが、この際そうも言ってはいられない。家康は集まった重臣たちにつげた。
この場にいるのは、本多忠勝、酒井忠次、榊原康政、石川数正、鳥居元忠ら、家康が織田信秀の人質だった時代から今日にいたるまで、ともに戦ってきた忠臣中の忠臣たちである。
もちろん、家康の父は忠臣中の忠臣だった舅に裏切られて家康を誘拐された。信じすぎてはいけない、とは、家康はわかっている。かれらとて特別ではない。
余談ながら、後年「徳川四天王」の一角に加わる井伊直政は天正三年(一五七五)に徳川に仕官するので、このときにはまだいない。
「出立前に念を押しておく。行軍中の乱暴、喧嘩、放火は法度(禁止)である。また、庶人からの取立ては事情の如何にかかわらず厳禁である。足軽たちにも厳達せよ。違犯いたさば、その場で斬りすてよ」
時代や洋の東西を問わず、戦場での兵卒による庶民への略奪は、しないほうが例外である。じゅうぶんな給与が支払われていても記念品としてなにがしかの略奪をするのだ。
ましてや戦国時代の足軽たちにとって合戦の際の略奪は、またとない余禄にあずかれる絶好の機会なのだ。食料や衣料などはもちろん、強姦や誘拐もふつうに行われていた。誘拐した女や子供は窩主買(けいずかい/盗品売買商)に売りつける。後年、豊臣秀吉が朝鮮半島に出兵して略奪し蛇蝎のごとく嫌われる結果を招いたが、当時の日本の倫理では、普通のことであった。もちろん、徳川もやっている。
織田信長は、この例外に属する。
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