弐 浅井はまだか
一 三河徳川
永禄十三年(一五七〇・元亀元年)、四月二十日、払暁(ふつぎょう)。洛中二条。
織田・徳川・足利義昭連合軍三万騎——といっても、徳川は二千騎ほど、足利義昭は名前だけで事実上織田と同じだが——京都洛中、上京惣構(そうがまえ)と下京(しもぎょう)惣構のなかほどで隊列を組んだ。
この様子では、いつ出立(しゅったつ)の法螺(ほら)が鳴るかわからない。いつでもどこへでも動けるように、三河徳川の家臣団の軍議はあとまわしにし、行軍態勢をととのえるのを最優先にした。
——それにしても——
と、家康はおもう。
——三河岡崎でも、市中で三万騎に隊列を組ませることは不可能なのだが——
京都はやたらと空地がある。無数の廃墟があって、散発的に城塞のような建物があり、そして上京惣構と下京惣構の内側は絢爛豪華といった具合で、何度みても、その不調和ぶりに家康は違和感を抱いた。
——なぜ、こんな街をみんながほしがるのか——
碁盤の目のように整然とした平安京へと再建されるのは、秀吉が政権を掌握して国内の戦乱を終結するまで待たなければならない。
この時代の京都は、あいつぐ戦乱と野盗によって荒れ果て、そしてきわめて小規模な都市であった。
上京の一部と下京の一部が城壁でかこまれた変則的な城塞都市で、かつて栄華をほこった京の町も、無数の廃墟と麦畑ばかりであった。だからこそ、京都二条の義昭居館も容易に構築できたわけであるが。
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