「新たな統治者の下では、いくら英語ができたところで何の価値もない」
リーはアイデンティティの危機に対して、あくまでも合理的に対処しようと考えた。
彼は自分のキャリアを破壊した日本を徹底的に憎む一方、軍政支配は個人の努力では解決できないと判断し、自らの誇りを守るために抗日ゲリラに加わるような「割に合わない」感情的な行動を避けた。リーは従来の西洋風の教養を捨て、華語と日本語を学ぶ道を選択する。
日本の占領から間もない1942年5月、彼は軍政当局が設立した日本語学校の第一期生になった。さらに翌年末から十五カ月間、軍政当局の「報道部」に職を得る。ただし、心の底から親日派に転じたわけではなく、職場で収集した情報から日本の敗戦を正確に予測し、やがて来たる連合国軍の反撃に備えて逃亡を計画するなど自己防衛を図っていたという。