テレビに映る残念な私が教えてくれること

実はトークイベントなどで、人前で話す機会が多い文月悠光さん。けれど、テレビだけは、いつも緊張して、うまくいかないことが多いそう。私はテレビに向いていない、いっそ書くように話せたらと思ってしまう、臆病な文月さんは、なぜそれでもテレビに出続けるのでしょうか。

「ああ~無理、ムリムリムリムリ……」

 布団をかぶって、ふるえている私。放り出したiPhoneは、Twitterの検索画面を映している。うっかり自分の名前で検索してしまい、悶絶しているのだ。泣きすぎて目は血走り、息はヒイヒイ、地獄のような形相である。


 元日の出演以来、もう呼ばれないだろう、と本気で思っていたNHK・Eテレの番組「ニッポンのジレンマ」から出演依頼をいただいた。「言葉のジレンマ」をテーマに、音楽家のぼくのりりっくのぼうよみさんと「表現」について語り合った。
 収録は楽しく終えられた。台本のない収録を、テレビド素人の自分がよく乗り切れたとは思う。

 放送後、興味本位でエゴサーチをかけた。

「なんの策もなく書き上げた詩を『自由に読んでください(でも本当は認めてほしい)』ってことにしか思えない」。見知らぬ人の書き込みに、激しく動揺した。結果、「もうテレビに出るのは止めよう……」と布団の中でメソメソ。数日間ふさぎ込むことになった。

 エゴサーチは不毛だ。出演者の目の届かない範囲でつぶやかれた、素直な感想。それをわざわざ検索して拾い上げて、撃沈されにいったのは私自身。「『なんの策もなく書いた詩』なんて今まで一篇もねーよ!」と天井へ吠えたところで虚しいだけである。
 しかも、そんな私の反応自体、指摘されている「自由に読んでください(でも認めてほしい)」の典型的反応で、目も当てられない。

 というわけで放送後、私は傷つくやら恥ずかしいやらで、意気消沈していた。

息もできないほど恥ずかしい

 もちろんテレビに出ると決めた時点で、「何か引っかかるようなことを言われるだろう」とは想定済みだった。叩かれて弱気になるようでは、覚悟が甘い。「伝わらなかった」という結果をまっすぐに受けとめるほかない。そうわかってはいるが、いざ批判に直面すると、不安に揺れてしまう。

 カメラの前で話すことの難しさを改めて実感する。誰に言葉を発するのか、どんな人が見てくれているのか、わからないまま話し出すのは、私にはひどく心許ない。かといって、視聴者の視線を意識しすぎると、力を試されているようで、いっそう臆病になる。
 カメラのレンズが、真っ暗なトンネルのように口を開けて「おまえを晒し上げるぞ」と迫ってくる。私は耐えきれず、無印の羽根まくらにぎゅっと顔を押しつけた(とりあえず布団から出ろ自分)。

 なぜ自分のようなものがテレビに出てしまったのか。まくらに鼻先をくっつけ、グズグズと思案に暮れる。

 実を言うと、普段からトークイベントなどで人前に出て話す機会は多い。インタビューも嫌いではない。しゃべりが得意とはお世辞にも言えないが、人前で話すことそのものへの抵抗感は薄い方だ。
 でも、テレビの仕事はそれよりはるかに緊張する。関わっている「他人」の人数がケタ違いに多いからだ。顔見知りのディレクターさんやプロデューサーの方はともかく、楽屋まで誘導してくれるスタッフさん、マイクを用意してくれる音声さん、照明さん、メイクさん、カメラさん……みんな初対面の大人たちである。

 正直、このカメラの後ろ側にいるスタッフさんたちが私は怖くて仕方がない。腕組みをしてこちらを見る目が「詩人とか言ってるけど、ナンボのもんなの?」という品定めの視線を送っているように思えてしまう。
 そんなのただの自意識過剰だ、被害妄想だ、やめーい!と言い聞かせて臨むのだが、結局アウェイな空気に気圧されて、「わ、わたしなんかが映ってすいません……」と瞬時に萎縮する。

 画面の向こう側にいる視聴者の人たちに対しても、おそらく私は同じ気持ちだ。ジャッジされるのではないか? 切り捨てられるのではないか? と縮み上がっている。

 視聴者の感想で一番堪えたのは、その臆病さを見透かされたことだった。「嫌われたくない」「作品のイメージを守りたい」「同業者にも良い顔をしたい」「プラスの方向で発言を受け取って欲しい」という思いが、発言の中に漏れ出ていた。そのことで「この人は問題に本気で向き合っていない」印象を与え、批判を煽ってしまった。
 私にとっては、もう息もできないほど、恥ずかしいことだ。


 Twitterでの批判について、「そんな反応を相手にしてはいけない」と言う人が多数派だろう。しかし私は、他人が読み取った自分のイメージも、「それはそれで真実なんだろうな」と受けとめてしまう。自分自身が思う自己像ではなく、他人から言われたネガティブな自分像を採択してしまう。逆に褒め言葉や、ポジティブな評価は受け入れがたい。
 なぜなら、私は常々人の目を気にして生きている。「自分を良く見せなきゃ」と意識すればするほど、ありのままの自分に自信が持てなくなり、ネガティブな評価に引っ張られる。

 テレビをきっかけに、普段の自分の残念さがくっきりと浮かび上がってきた。

かといってインチキ自己肯定も気が進まない
この続きは有料会員登録をすると
読むことができます。
cakes・note会員の方はここからログイン

1週間無料のお試し購読する

cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。

人気の連載

おすすめ記事

この連載について

初回を読む
臆病な詩人、街へ出る。

文月悠光

〈16歳で現代詩手帖賞を受賞〉〈高校3年で中原中也賞最年少受賞〉〈丸山豊記念現代詩賞を最年少受賞〉。かつて早熟の天才と騒がれた詩人・文月悠光さん。あの華やかな栄冠の日々から、早8年の月日が過ぎました。東京の大学に進学したものの、就職活...もっと読む

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード

コメント

luna_yumi これ実際に吠えてました🙏💫 エゴサーチは不毛だ。出演者の目の届かない範囲でつぶやかれた、素直な感想。(…)撃沈されにいったのは私自身。「『なんの策もなく書いた詩』なんて今まで一篇もねーよ!」と天井へ吠えたところで虚しいだけである。 https://t.co/Kv5IBaK9mB 約2ヶ月前 replyretweetfavorite

luna_yumi 私は、他人が読み取った自分のイメージも、「それはそれで真実なんだろうな」と受けとめてしまう。自分自身が思う自己像ではなく、他人から言われたネガティブな自分像を採択してしまう。 ▶︎|文月悠光 https://t.co/Kv5IBasyv3 約2ヶ月前 replyretweetfavorite

luna_yumi 3年前に出演したEテレ「青山ワンセグ開発」📺🌠 決勝投票で負けて、生放送で悔し泣きしてしまったのだけど、書きながら当時のことを思い出しました。「好きな企画でしたよ」と収録後に慰めてくれた司会のアンガールズ田中さん、優しかったなあ…。 https://t.co/Kv5IBaK9mB 約2ヶ月前 replyretweetfavorite

kei_sandrol けなされると自分の本質を見抜かれたと思ってしまい、褒められるとそれは演じてるだけだと思ってしまう。はみだしっ子のグレアムペンギン。 > 約2ヶ月前 replyretweetfavorite