「まことにご足労たまわり、申し訳ござなく候」
明智隊本陣の前で光秀は立って家康の来訪を待っていた。家康のすがたをみとめると、明智光秀は深く頭をさげた。
光秀と会うのはこれで二度目になるか。苛烈ないくさぶりはすでに三河にも届いており、風雅の道にも長じているという。
明智光秀は、学者顔である。表情だけをみれば、軍装に身をかためるよりも、書見台を前に論語を講じるほうが似合っているようにみえる。噂にきこえる猛々しさとは、かなり印象がちがう。
前年の永禄十二年(一五六九)一月、将軍足利義昭の居館が、一揆衆——それも農民一揆や一向一揆ではなく、信長上洛にともなって洛外に放逐された三好三人衆や旧美濃国主・斎藤龍興(たつおき)らの牢人軍団によって襲撃される事件が発生した。
このとき織田は総軍を岐阜に引き上げており、足利義昭の居館も城づくりではない、脆弱なものであった。
そこで、光秀が指揮をとり、わずかなを手勢で攻め手をふせぎ、洛外に駐在していた細川藤孝(ふじたか)や荒木村重(むらしげ)らの救援がくるまで堪えて、足利義昭の命を守りきった。
戦国武将の評価基準は、なにはなくともまず武功、が鉄則である。とはいえ、平素どれほど鍛錬していようが、武功がいかに運に左右されるものかは、戦国武将はだれもが知っている。武功への賞賛は、その運への憧憬もふくむ。出すぎた杭は打たれない。
明智光秀が足利義昭をともなって岐阜をおとずれたのは、その前年永禄十一年(一五六八)七月。光秀は足利義昭の直参ながら信長への寄騎(出向)の立場となり、たった半年で、諸方を驚嘆させるほどの武功を立てたのだ。
ただし、老いている。
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