「上様(将軍足利義昭)の下命や推挙での昇進を拒否なさるのはわかる。しかし、禁中からじきじきの昇進の内命をしりぞけるのは、なぜだ?」
「それがしには、なんとも」
半蔵は、般若の面によく似た眉間のしわを、さらに深くして首をかしげた。徳川伊賀者棟梁の立場と、顔そのものが鬼に似ているせいか、服部正成は「鬼半蔵」と呼ばれている。
服部半蔵正成は当年二十九歳で家康と同い年。父・服部保長(やすなが)のあとをついで徳川(岡崎松平)伊賀者棟梁として、今川人質時代から家康につかえた旧臣である。
伊賀者に限らず、忍びの地位はきわめて低いものであった。服部半蔵は幾度も家康の命を救ったが、最終的には与力三十騎と伊賀者同心二百人を束ねる程度の出世でおわっている。
この当時、伊賀者の多くは特定の主君をもたず伊賀国に住み、諸国に潜伏し、あるいは出張して情報をあつめ、戦況に応じて紛争の当事者に情報を売った。
ほとんどの伊賀者にとって、本物の主君は自分自身である。戦国武将たちにとって伊賀者の諜報力は重宝するが、敵にも自分たちの情報がながれているわけで、武将たちとは価値観がかなりちがう。
家康は、織田信秀に誘拐されて以降、忍びの情報力の重要さは痛感していた。事実上の養父・今川義元が軒猿(のきざる)とよばれる忍びの者を常雇いしていたのも影響している。
伊賀者は有能だが、情報収集能力にはかなりの限界があった。ただ、家康はほかの手段を持たない。
「信長殿は禁中のご威光をも、おろそかになされるつもりなのだろうか」
「それもまた、それがしにはなんとも」
服部正成の最大の限界は、情報収集能力があっても、情報解析能力に欠けているところにあった。もちろん、だからこそ家康が重宝しているといえるが。よい寄木を彫るのは職人の仕事でも、それをくみ上げて仏像にすることまでまかせては、棟梁が存在する意味がない。
「まだ、わからぬことがある」
「調べよと仰せならばなんなりと」
「なぜ“いま”漏れたのだ?」