「裏がとれていない話もあるのだな」
「御意。禁中から信長様への官位昇進宣下は本当、信長様がそれを拒みあそばされたのも本当でございまするが、以下はいささか不明に候。おおごとでありますれば、後日あらためて禁中から下しおかれるやもしれぬのですが——」
「かまわん。申せ」
「朝廷は信長殿に『好きな官位をどんなものでもくだす』と仰せの由」
ひっ、と家康は自分の喉の奥が鳴るのがわかった。
こういう具合に、すぐに内心が表に出るところが、徳川家康はまだ若い。
信長は二度、昇進を断っている。
二年前の永禄十一年(一五六八)九月、織田信長は尾張・美濃・北伊勢の織田直属軍と、三河の徳川家康、北近江の浅井長政の連合軍総数六万騎という、当時としては前例のない巨大兵力をもって南近江六角氏を一蹴し、一気に岐阜・京都間の経路を確保して上洛した。
信長は上洛直前の同年七月に、足利義昭の身柄を浅井長政経由で朝倉義景より請けとっていた。
上洛時の動員数と出立までの期間を勘案して逆算すると、信長は足利義昭がいなくても上洛するつもりだったのは明らかである。
ただ、尾張の出来星大名が突然武力で押し入るよりも、足利幕府振興の名目があったほうがよい、といった判断だったと推測される。
若年時の奇行や桶狭間での独断出陣などから、織田信長は狷介固陋(けんかいころう)・短気直情な印象を持たれがちであるが、家督を相続していったん分裂しかけた尾張を再編成しなおすのに八年、隣国美濃を併合するまで、国主が斎藤道三(さいとうどうざん)・義龍(よしたつ)・龍興(たつおき)の三代にわたり十二年間かけて待つほどの、慎重な男である。
当然、前例を調査しただろう。
むろん、前例はいくらでもある。朝日将軍・源義仲(みなもとのよしなか)は木曾を本拠地として北陸経由で平氏を大敗させて上洛したが、さしたる名目がないままの入洛で洛中の庶民にきらわれ、たちまち失脚して源義経(みなもとのよしつね)に追われた。
信長は、権威の重要さともろさを知っている。
上洛した翌月の永禄十一年十月、信長の奏上によって足利義昭は朝廷より征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)の宣下をうけ、足利幕府十五代将軍となった。
足利義昭は狂喜し「副将軍なり管領なりの職に就け」と命じたが、信長はこれを蹴った。自分が就けてやった将軍の家臣になる必要はどこにもない。
とはいえ、信長の功績に対してなんの褒賞もなければ足利幕府の沽券(こけん)にかかわる。足利義昭が信長に冀望(きぼう)をたずねたところ、「しからばご感状(感謝状)をたまわりたい。宛名は『御父織田弾正忠』とでも」とだけ欲した。
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