家康が尾張・織田信秀に誘拐され人質になって二年目の夏ぐらいに信長の馬のまわりを走る少年があらわれた。——このとき秀吉は十三歳で、元服直前の年齢なので「少年」と感じたのもおかしな話だが。
信長は十六歳。織田の総領になることは決定していたが家督相続はしておらず、髪を朱色の縅紐で茶筅(ちゃせん)に結い、素肌に小袖、帯にはいくつもの革袋をぶらさげ、といった当時としては奇怪な風体で市中をはしりまわっていたのは、誰もが知るとおり。
織田信秀の跡継ぎである信長が「信秀が誘拐してきた、みせしめの人質」の家康のもとをおとずれるだけでも、信秀に対しての謀反(むほん)を疑われてもしかたない、無茶な行動である。にもかかわらずしばしば家康のところにきた。
信長が家康のもとをおとずれたはじめのうち、信長はいつも何かにいら立っている様子だった。それが、秀吉が雑人(ぞうにん)になってから、目に見えておだやかになった。
家康が推察するに、秀吉が口下手な信長の気持ちの先を読んで行動していたことが、かなり信長にとって楽だったのだろう。
信長が家康のもとをおとずれるとき、かならず、
「猿、あれ」
とだけいう。猿によく似た顔の雑人は、そのひとことで小脇にかかえた握り飯をさしだした。
「それ」
のひとことで灯油や塩などどこに持っているのか、日常のこまごまとしたものを差し出す。
某日(ぼうじつ)の、信長のとった行動を家康は忘れない。
「竹千代(家康)、辛うはないか」
「じゅうぶんに心遣いをいただき、深謝(しんしゃ)つかまつり候」
「噓つけ。顔に早う帰りたいと書いとるガヤ」
と指摘されて家康は緊張した。脱走する気があるとおもわれては、その場で殺されてしまう。織田での人質時代は、そういう特殊な立場の「人質」だった。
「気分をはらせ。こいつを殴れ。俺はよくそうしとるニ」
と、秀吉をさしだした。
猿、と呼ばれた木下秀吉はにじり出て、
「なにとぞ、ご存分に」
そういって、懐中から一尺の長さの火吹き竹をさしだして平伏した。
これで「はいそうですか」と信長の雑人を殴るわけにもゆかない。家康がためらっていると、信長は秀吉の手から火吹き竹をとりあげた。
「猿、これは、ずるい」
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